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大場江美さん(サスティナライフ森の家)、日影良孝さん(日影良孝建築アトリエ):手のひらに太陽の家


3. 「手のひらに太陽の家」プロジェクトが
 実現するまで

震災で行き場を失った子ども達のための
共生住宅を

大場 大場江美さん:木造仮設住宅を提案する時期は逃してしまいましたが、復興に向かう過渡期には、現在主流の応急仮設住宅のように家族ごとで暮らしが小さく完結するのでなく、みんなで助け合って共同生活ができる大きな家があったらいいな!という思いは、ますます強くなっていきました。とはいえ、もう、避難所から仮設住宅への移行が進んでいってしまったのですから、ほかにどんなニーズがあり得るか、考えました。

ヨハナ 木の家ネット ヨハナ:大場さん、粘られましたね〜 被災したから支援を、というだけでなく、共生していける暮らしを通じて、被災というマイナスをプラスの未来に転じていこうという夢を感じます!

大場 そこで思いついたのが「親を失った子ども達が笑顔を取り戻せるための場」ということでした。バイオマスネットワークの理事長の佐々木豊志が長年「くりこま高原自然学校」で子ども達のための環境教育に取り組んでいて、困難な状況に置かれた子ども達のケアをしてきたこともあり、ハードとしての家をつくるだけでなく、そのあとのソフト面での運営もできるだろう、と。

ヨハナ 設計者である日影さんのスケッチがあり、大場さんのところで地元の山とつながった建築ができ、佐々木さんが子ども達が自然や人と関わりながらの暮らしを見守る。思いを同じくする異業種の人が集まっているバイオマスネットワークだからこそできることですね!

大場 とはいえ、震災遺児や孤児を受け入れるのは、法律的な意味でいろいろ難しいということが分かり、沿岸部の父子家庭や母子家庭に呼びかけを始めました。この時点ではまだ県内というイメージしかなかったのですが、動いて行くうちに知り合ったのが、子どもたちを放射能から守るネットワーク 福島の吉野裕之さんです。強制避難区域に指定されていなくても、放射線量が高い地域がかなり広範囲にわたってあることを初めて知り、びっくりしました。

ヨハナ 報道は「直ちに人体に影響はない」の一点張りでしたものね。

大場 で、吉野さんから「福島に住み続ける子どもたちを放射能の影響から守るには、保養が必要。福島から2時間という立地にそのような施設ができたら、利用したい親子はたくさん居ますよ」という聞き、ここに強いニーズがあったのか!と。

ヨハナ それで今の「手のひらに太陽の家」の形になっていったんですね。

大場 「震災によって困難な状況にある子ども達を支援する」というのが、津波でなく放射能のことだったのか!というのは、予想を越えていましたが、これは本当に必要なことと分かり、沿岸部への声かけをストップし、吉野さんを通じて福島の親子への呼びかけに切り替えていきました。

ヨハナ 天災だけで済まない影響がでてきるのは、自然との共生する暮らしから離れてしまった現代だからこそですね。それを困難な状況にある子ども達を中心とした共同生活を通して取り戻していく場として「手のひらに太陽の家」があるんですね。

大場 子どもには、自然の中で思いっきり遊べて当然なのに、福島の子ども達は、その機会が奪われてしまいました。お母さんたちは、子ども達が育つ環境のことで、心を痛めています。「手のひらに太陽の家」に保養に来る時には、好きなだけ外遊びができ、お母さん達も共同生活する中で自然と悩みを語り合ったりできます。構想していた「自然の中で自然と人、人と人とが共生できる家」が誰にとって必要か。それは時代とともに変わっていくでしょう。今は、そしてそれがどれくらい長くなるか見当もつきませんが、今しばらくは、福島の親子のためにあるんですね。

ヨハナ 本当によかったです!ところで「手のひらに太陽の家」って、誰でも知っている「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」っていうあの歌の歌詞ですよね。それをネーミングに使ったのはすごい!ですよね。

大場 名付け親は日影さんなんですよ。それにロゴマークのデザインも。日影さん「設計のできる詩人」なんですよ〜

「手のひらに太陽の家」のロゴの元になった、日影さん手描きのスケッチ。完成したロゴは、太陽がもう少し上になった。

協力者を募り、資金を集め、
土地が決まり、設計が進み・・

ヨハナ ところで、構想を裏付けてプロジェクトを実現しているには、多額の資金が必要となるわけですが、どのように調達したのですか?

大場 そもそも木の仮設住宅に積極的でない宮城県やそれにならう自治体には期待できない。となると、土地の取得から企画、実行までを民間ですることになるわけで、これは大変なことで、佐々木さんと一緒に企業まわりをしました。協力してくれそうな企業もあったのですが、「日本の森バイオマスネットワーク」が当時はまだ寄附をする側の税制優遇措置がとられる認定NPO法人になっていなかったために「多額の寄附」を受けにくかったりで、資金集めは難航しました。そこで「これはいよいよ、著名人に呼びかけをして、小口の寄附を一般の方からかき集めるしかないかな」ということで、くりこま高原自然学校とも縁の深い、アウトドア総合ブランドのモンベルグループの辰野さんに呼びかけ人になってもらおうとお願いをしに行ったです。

佐々木 佐々木豊志さん:震災後、モンベルグループの辰野さんは、アウトドア義援隊をいち早く立ち上げ、登米に拠点を置きながら、特に子どもや女性の支援に力を入れた活動をしていました。アウトドアブランドですから、もともと私たちくりこま高原自然学校とは昔からつながりはあったのですが、同じ時期に被災地支援に入っていたということで、情報交換や協力連携などする場面も多くありましたね。そんなご縁で「手のひらに太陽の家」の建設にあたっても、支援をしていただくこととなりました。

大場 辰野社長にお会いするなり「今から小口で集めてるんじゃ間に合わない。全部うちでみるから!」と言われ、土地の取得から建設費まですべてのの面倒を見てくださることが決まりました。これで、ようやく実現できることとなり、本当にありがたかったです。土地探しが二転三転しましたが、2011年8月には敷地が決まりました。

ヨハナ そこから日影さんによる設計が本格的にスタートしたんですね。

大場 いや、その前にスタートはしていて、敷地候補が4、5回変わりましたから、そのたびに設計のし直しで、日影さんは大変でしたよ。電車が復旧していなかった頃ですから「敷地が変わった」と連絡するたびに、夜行バスで飛んで来てくれてね。これが全部ボランティアワークだったんですから!

ヨハナ 地元の木を使った木の空間、被災されている方の再スタートを応援するような空間配置、プライバシーと共同生活の両立、自然エネルギーでの運用など、てんこもりの条件をよくまとめられましたよね。それにネーミングからロゴまで!まさに、日影さんの代表作となりましたね。

日影 日影良孝さん:ただでさえ大変な思いをしている人たちが「今いるところは素敵なところ」と思えるような、本物の木の家を作りたい。たんに入れ物として素敵なだけでなく、手を取り合って、つながりをもって生きていけるような、そんな家にしたいという思いで取り組みました。それは、プレハブ協会がつくる仮設住宅には、ないものです。

2012年1月に着工
わずか8ヶ月間でオープン!

大場 そして10月から、もうひとり強力な助っ人が来てくれました。現場監督をつとめることになる久保田純夫さんです。久保田さんは、自然素材の家づくりに取り組む福島の建設会社の東京支社でバリバリ働いていた方で、彼の登場で、この難しい工事がやれるという目処がつきました。

ヨハナ 規模が大きいだけに、とりまとめるべき大工さんたちも職方さんも大勢になりますし、設備、防火面など、法的な調整も大変ですものね。

久保田純夫さん

久保田 久保田純夫さん:ぼくは福島県出身なんです。家族を福島に残して東京に単身赴任していた時に、震災に遭いました。大場さんからこの企画のことをそして「誰も工事をとりまとめられる人がいない」ということを聞いた時に「今こそ、育ててもらった東北の役に立つ時だ」と思い、前の会社を退社し、サスティナライフ森の家に転職しました。大変な現場だけれど、今こそ自分の現場経験を活かす時だと身震いする思いでした。「誰のために働くのか」ということをこれほど意識したことはなかったですね。

大場 2012年の1月には確認がおりて、着工したのですが、施工面では大工の確保にも苦労しました。サスティナライフ森の家で施工をお願いしているベテラン大工さんはもちろんいるのですが、人数が圧倒的に足りないので、バイオマスネットワークの全国の会員工務店さんから、木組みの仕事がわかる大工さんたちの応援をいただきました。

ヨハナ そして、2012年の7月には完成。これだけの規模の建物が、震災後で物資も人手も不足する中、着工半年にして完成とは、すごいですね。

大場 みんなががんばってくれたからこその、奇跡です!

オープン、そして現在。

大場 そして、いよいよオープンを迎えました。構想当時は宮城県の津波被害で親を失った子たちをイメージしていましたが、そのような子たちはすでに親戚や施設に引き取られていった後になっていました。むしろ福島県の放射能汚染地域の母子の保養のニーズの方がうんと高かったですね。予想していなかったことでしたが、これだけのニーズがあるのだから作ってよかったとも思いましたね。

ヨハナ 福島の放射能汚染の場合、強制避難区域ではないけれど線量が高い地域ができてしまいました。そこが居ていい場所なのかいけないのか、分からないという不透明な「行き場のなさ」「息苦しさ」がずっと続いていますものね。

大場 福島に住み続ける場合でも、ときどきは線量の低い地域で身体をリセットする「保養」が、身体的にも精神的にも有効です。かなしいかな、これは、震災直後の一時的なことではなく、ずっと続いていくニーズです。

ヨハナ 親が子の保養場所をアレンジして、個人的な旅行で対応する、というのでは大変ですものね。

大場 それに、放射能汚染のケースでの保養に必要なのは、場所だけではないんですよね。相談相手になれるスタッフ、たまたまいっしょに滞在することになる、似たような状況にある家族、いっしょに遊べる子ども。そこに人が居て、つながりがあることが大切ですから。

ヨハナ となると、持続的な運営体制が不可欠ですね。

大場 そのためにみなさんのご理解をいただきながら寄付金を募り続けていくほか、「手のひらに太陽の家」自体が、自らまわしていけるような採算事業を生み出して行くことも必要でしょうね。モンベルとのつながりの中で、アウトドア、自然体験系での展開が考えられますので、取り組んでいきたいと思っています。

ヨハナ 研修やイベントで、貸しスペースとして活用することもできると聞いています。

大場 そうなんですよ!木造関係者の皆様、ぜひ、使ってくださいね。

「手のひらに太陽の家」のWebサイト。利用申込みもここからできます。

1.「手のひらに太陽の家」の概要
2. 東日本大震災の発生〜「手のひらに太陽の家」構想の誕生
3. 「手のひらに太陽の家」プロジェクトが実現するまで
4. サスティナライフ森の家の取り組み:自伐林業と復興支援住宅


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手のひらに太陽の家の上棟式