掛川総会3


第16期木の家ネットの総会が、静岡県掛川市で行われました。総会の議事等の会合がすべて終了した後、掛川城周辺へのオプショナルツアーに出かけました。木造で復元した天守閣、全国にも残っている例の少ない大名の住まい兼公務の場である御殿、明治初めに報徳思想を広めるために建てられた大講堂など、見応えのある建物を次々と見学し、充実した時間を送りました。

建物そのものも素晴らしいのですが、より感銘を受けたのは、このような建物を現代にまで残したり、復元したりしてきた、掛川の人々の思いと、それを実行に移す行動力。さまざまなものが、市民の力で誘致、再建、維持されており、そうした行動こそが真の「生涯学習」であるという考え方が根付いていることに驚かされました。

望むまちづくりを
自分たちの手で

総会二日目の午後は、掛川城エリアへ、オプショナルツアーを行いました。掛川は東海道の主要宿場町として、また掛川城を核とした城下町として発達した町として知られています。

掛川城から見る掛川の街並

今回、興味深かったのは、掛川の人たちの「必要な資金を自助努力で集め、自分たちが望むまちづくりをしていこう」という精神に触れることができたことです。この精神があってこそ今の掛川の姿がある、ということを知りました。

市民の生涯学習力で実現した
二つの掛川駅

一例として、掛川駅についてご紹介しましょう。新幹線掛川駅は、周辺市町村の応援も得ての10年以上にわたる運動で、30億にのぼる建設費用や資金を地元で調達、昭和63年に地域の総力を結集した「市民による請願駅」として誕生しました。ここまでは、他の地域でもある話ですが、興味深いのはその先です。この新幹線駅が開通して20年あまり経って、在来線掛川駅の木造駅舎の保存運動が起きたのです。

昭和8年の建設以来、戦争にも風水害にも耐えてきた駅舎を守るために「木造駅舎を未来につなげるフォーラム」を重ね、5000万の募金目標を達成した結果、構造面では耐震改修工事を施しながらも外観は戦前の板張り駅舎の景観を残すことができました。モダンな新幹線駅と昔懐かしいレトロな在来線駅の両方が、市民の力の結晶としてできたのです。

左:市民で誘致した新幹線の駅 右:市民の力で木造駅舎が残った

掛川市ではこうした市民運動を「生涯学習」と位置づけています。生涯学習は、机上の学問ではなく「互いに問題・課題意識を共有しながら、常に地域社会や市政に参加し行動する協働を前提とした学び」であるという考え方が、地域づくりを牽引しているのです。

市民の力で140年ぶりに
天守閣がよみがえる

掛川城の天守閣は、市民の力による再建事例として知られています。職人がつくる木の家ネットの代表の大江忍が以前ゼネコンの下請けとして木工事、左官工事などの施工を担当したので、天守閣再建をめぐる興味深い話を聞きながら見学ができました。

実際に施工に携わった大江さんから当時のエピソードを聞きながら見学できるのは、総会ならではの醍醐味。

掛川城の天守閣は、約400年前の安土桃山時代に、山内一豊公が築いたものです。後に山内公は掛川から高知に移り、高知城を築きました。「東海の名城」と謳われるほどの美しさを誇りましたが、天正12年の地震で大破。元和7年に再建されています。しかし、幕末の安政東海大地震で損壊した後は再建されないまま明治維新を迎え、廃城となりました。

昭和40年代に天守閣再建運動が起きましたが、実現には至らず、以来天守閣再建は市民の長年の夢となりました。昭和62年に、掛川の生涯学習運動に感銘を受けた一人の女性が約5億円の寄付を市に申し出たことから復元の機運が一気に高まり、天守閣建設推進委員会が発足。その総工費約11億円のほとんどが市民から集まり、平成6年、140年ぶりに美しい姿を現しました。

左:天守閣に展示されている壁の断面見本。何層にも塗り重ねられてい厚みを出しているのが分かる。 右:消石灰と硅砂と海藻糊を混合した「砂漆喰」を塗る工程。これを下地にして土佐漆喰を3回塗り、磨きあげて完成。(提供 ナチュラルパートナーズ)

木造による天守閣復元は
掛川城が日本初!

現代になって天守閣を再建する場合、鉄筋コンクリートで外見だけ天守閣らしく見せることが多いのですが、掛川城は木造復元天守閣を新築する初の試みとなりました。青森から掛川駅に到着した長さ8m、重さ約1.3tのヒバの大木を、市民の力で運ぶ「里引き」も行われ、大いに盛り上がったそうです。

木造での天守閣復元としてはその後、平成7年に白石城(宮城県)が続きました。また名古屋空襲で消失した後、昭和34年に鉄筋コンクリートで再建された名古屋城が、東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせて木造で復元されることが、名古屋市議会で可決されています。

二の丸御殿、茶室

掛川城一帯は掛川城公園として整備されていて、天守閣以外にもさまざまな施設をめぐりながら散策することができます。天守閣見学の前後に、3つの班に分かれ、見学する順序を入れ替えながら、二の丸御殿と二の丸茶室を見学しました。

二の丸御殿 左:改修工事で根継ぎが施されていた 右:書院造りの美しい建物

二の丸御殿は、城主の公邸や藩の役所として使われていた場所です。大名が実際に生活した場所がこのような形で残っている例は全国に数カ所しかなく、国の重要文化財となっています。廃藩置県の後、重文指定を受けるまでの間、学校や役所など、さまざまな用途に使われてきました。ここが掛川市庁舎だったこともあったと聞いて、びっくりしました。

同じ二の丸には、茶室もあります。外観だけの見学でしたが、数寄屋建築の繊細なつくりを見て、感じることを思い思いに語り合う時間も楽しいものでした。510円払って、広間で掛川茶のお抹茶と和菓子で一服した人もいたようです。

城跡整備から
城下町のまちづくりへ

大径木の木を組み上げる大工職人、分厚い漆喰壁を白く塗りあげる左官職人の手の技で、美しくよみがてった木造の天守閣。それにふさわしい城下町を!というまちづくりも進んでいます。

各業種で城下町らしさを演出している

電柱の地下埋設、「なまこ壁」をあしらった自動販売機、銀行に至るまで、さまざまなステージで都市景観に配慮した工夫が実行されています。

明治初めの棟梁が作った大空間
大日本報徳社講堂

大日本報徳社講堂の外観

掛川城に続いて、すぐ隣にある「大日本報徳社講堂」を見学しました。これは、二宮尊徳(幼名二宮金次郎)とその弟子たちが提唱した経済学説・農村復興運動「報徳思想」を普及するための公会堂として、尊徳の弟子の岡田佐平次の子良一郎が明治8年(1875年)に建てたものです。平成16年から極力古材を使った解体保存修理がなされ、平成21年には、国指定の重要文化財となりました。

入母屋造りの瓦の大屋根、漆喰塗りの外壁、洋風の丸みのある窓等、荘厳な重みが感じられる和洋折衷の建物です。中に入ると、そこは間口9間、奥行き7間、81畳の大広間。木組みだけでこれだけの大空間を創り出す大工棟梁の力量に感動させられます。

2階部分が回廊になっている。洋風の大きな窓から射し込む光が、大講堂を明るく照らす

掛川の底力。報徳思想から
生涯学習によるまちづくりへ

二宮尊徳の教えとは「まごころをもって事に当たり(至誠)、小さな行いを積み重ねることで大きなことを成し遂げ(勤労)、どう生き、どう行うべきかという自分の分を知り(分度)他者に譲れば(推譲)、周囲も自分も豊かになる」というものです。

二宮尊徳が金次郎少年当時の像。ガイドの方が、建物や金次郎の生涯、報徳思想などについて詳しく説明してくださったいただいた

経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると、報徳思想では説きます。このような考えが人々に浸透しているからこそ、掛川城天守閣の再建をはじめとする城下町の整備、掛川駅誘致、木造駅舎保存運動などのまちづくりが掛川で実現できているのでしょう。

市民によるまちづくりの結果、美しい景観がつくられ、保たれる。日本の各地でそのような動きが生まれ育っていくことを願いたいものですが、そのためには、それを支えるバックボーンとなる思想が必要なのではないかと、そして「生涯学習」という考え方にそのヒントがあると感じさせられました。