板倉仮設住宅 移設ものがたり part1 概要編では、東日本大震災以降、応急仮設住宅を鉄骨プレハブでなく、木造で造る動きがでてきていることをお伝えしました。また、そのひとつとして、今回、岡山県総社市に移設された、福島県いわき市の板倉構法による仮設住宅事例をご紹介しました。
今回 part2 実録編では、岡山県総社市への移転が実現するまでのプロセスを、杉原敬ことマイケルからの聞き書きをもとに、ドキュメンタリーとして構成しました。彼は、いわき市での解体から移設までの工事に関わり、木の家ネットなどのつながりで多くの「応援大工」たちに声かけをし、現地の大工チームや設計者である安藤邦廣さんとの連携をするはたらきをした、宮城県南三陸町在住の大工です。
総社市長の決断で
福島県から無償譲渡される
福島県いわき市の板倉木造仮設住宅を、岡山県総社市に移設することを希望したのは、総社市の片岡聡一市長です。岡山県立大学にいる安藤さんの元教え子が、片岡市長に「板倉構法の木造応急仮設」を紹介したことが、直接のきっかけとなりました。市長自身、東日本大震災の支援で何度も東北を訪れており、かねてから仮設住宅の住環境について、なんとかしなければならないという思いがあったからこそ、この板倉の応急仮設住宅を住む家を失った市民に届けたいと、即決したそうです。
市長が福島県知事に協力を要請すると、ちょうど応急仮設としての供与期間が終了となり、解体されることが決まっていたところでもあったので、総社市に無償で譲渡されることとなりました。
そして、総社市は、総社市建設業組合に、いわき市から材を運搬してくる24棟の建築工事を発注します。組合側は、地元で損壊した住宅への対応で多忙をきわめる中、はじめての「板倉構法」に取り組むことに躊躇もあったようですが「いわき市での施工経験のある大工の応援を依頼するから!」と約束した安藤さんの後押しで、いよいよプロジェクトは、動き出すこととなりました。
「大工を集めて!」
SOSに応えて集結した大工たち
計画実行にあたり、安藤さんが応援を求めたのが、いわきや会津若松での板倉木造仮設工事で共に動いた仲間たち。そのひとりが、職人がつくる木の家ネットの会員で大工のマイケルこと杉原敬でした。
東日本大震災発生当時、埼玉県飯能市で大工をしていたマイケルは、仮設住宅をなんとかして木造で造れないか、模索していましたが、なかなか道は拓けず。そんな頃、安藤邦廣さんとの出会いから、いわきと会津若松での、板倉仮設住宅建設に関わることとなったのです。その後、木の家ネット仲間の佐々木文彦さんとのつながりから、石巻市北上町で被災者自身が運営するWe are One Marketに隣接する「こどもハウス」木工事を担当することになり「北上ふるさとプロジェクト」をたちあげて、宮城県石巻市に残る道を選びました。 竣工後もマイケルは宮城にとどまり、あっちこちで復興支援大工としてはたらきました。震災から7年たった現在は、南三陸町に住み、ワカメや牡蠣の時期には時に漁師をしながら、木工房瑞(みつ)という屋号で大工をしています。
供与期間を終え、岡山県総社市に譲与されることとなったいわきの板倉仮設の解体と並行して、マイケルは木の家ネットのメーリングリストなどを介して、総社への応援を呼びかけました。ほかにも、日本板倉建築協会の理事で、木の家ネットの会員でもある杉岡製材の杉岡さん、設計士の丹呉明恭さんが伝統木造を志す若い大工たちを教えてきた「大工塾」OBの鹿児島の堂園さん、かつて国交省が大工志望の若者と工務店とをつないでいた「大工育成塾」OBの福岡の池尾君が、それぞれのネットワークを通じて仲間呼びかけた結果、全国から続々と大工たちが総社に集ってきました。四日間、一週間・・それぞれに、地元の施主の理解を得て、現場の日程をなんとか工面しながら。まんべんなく人が途切れないようお互いに調整をはかりながら。
こうして、総社市建設業組合の地元工務店大工チームと、全国から集ってきた大工達との混成部隊での、板倉仮設建設現場がスタートしたのです。
【木の家ネット関連の応援大工】
ここに名前が出ているのは、木の家ネットのメンバーや一緒に行った人のみ。実際には、大工塾、九州大工塾、大工育成塾OB、伝統木構造の会など、様々なルートで声のかかった大工たちが全国から総勢80数名集まったと聞いています。みなさま、お疲れ様でした。
宮城県: | 杉原 敬 |
埼玉県: | 綾部 孝司+弟子 野村昌也、今井 裕介、田代 幸弘、佐伯 建、後藤 悠平 |
岐阜県: | 各務 博紀+弟子 各務椋太、中村哲也 |
三重県: | 増田 拓史+弟子 今井 航希 |
三重県: | 丹羽 怜之 |
三重県: | 高橋 一浩 |
三重県: | (池山 琢馬の弟子) 加藤 千香子 |
滋賀県: | 宮内 寿和+弟子 関岡 舞美 |
京都府: | 金田 克彦 |
京都府: | 高橋 憲人 |
兵庫県: | 藤田 大+弟子 加治屋 雄樹、福本 杜允 |
鳥取県: | 山下 大輔+弟子 丸山 芳弘、岡垣 建二 |
岡山県: | 山本 耕平+Jonathan Allan Stollenmeyer+弟子 清水 裕司 |
岡山県: | 和田 洋子(記録班) |
広島県: | (野島 英史の弟子) 林 直樹、池田 孝仁 |
山口県: | 宮村 樹 |
山口県: | 久良 大作+弟子 黒瀬 規公、沖本 克則 |
高知県: | 沖野 誠一+弟子 須賀 大輔 |
高知県: | 小松 匠+職人 笹岡 直樹 |
長崎県: | (池上 算規の弟子) 3名 |
地元建設業組合と
応援大工たちとの役割分担
8月8日、第一工区の11棟の工事が、地元工務店大工チーム先行ではじまりました。福島での建設と解体を請負った佐久間建設の監督さんがボランティアで現地をサポートしてはいたのですが、全工程と完成状態を熟知する人は、常駐ではいませんでした。全体を見渡して判断し、指揮する人が不在のまま走り出した現場では、構造安全性を担保する施工方法や、外壁や内部造作の収まりなどについて、個々の大工や業者間で意見の食い違いが噴出することとなりました。
僕たち県外応援チームが入った当初、地元チームとは別の棟を受け持っていたのですが、僕がいわきでの建設当初の7年前から関わっていたことを知った大工さん達や組合の監督さん達から、設計サイドから細かいところまでの指示がでていないおさまりなどについて様々な質問を受け、答えていくようになりました。そこで、組合の了承の下、工程後半のおさまりや仕上げにかかわる造作作業は、人数も多くいる県外応援チームが対応していく事になりました。救助、救援、安全やライフラインの確保、避難所での生活や仮住まいの確保、壊れた建物の補修、修復、再建についての相談など、地元の大工さんたちには、応急仮設住宅の建築工事以外にもやることが山ほどあって、設計サイドとやりとりしながら進める、という日数を裂くだけの余裕がとてもなかったからです。
応急仮設住宅の建設を請け負う主体でありながらも、総社市の建設業組合のメンバーは、地元住民に直接対応しなければならないことがたくさんありました。「被災した地元がまず動かなければ」という強い思いはあっても、さまざまなことに追われすぎていてできない。現地の大工たちが抱えている悔しさを知ったマイケルは、応急仮設住宅建設工事の面倒な部分は、各地から波状的に応援にかけつける県外応援大工たちのはたらきでカバーしようと心にきめました。
その延長で、第二工区昭和地区の13棟は、地元工務店大工チームが建前と床張り、外壁の板張りまでを受け持ち、それ以降は、県外応援チームが担当するという役割分担となりました。作業としては、浴室と脱衣場の床張りと内装、内部サッシと木製建具取付け、キッチン周りの造作、押し入れ棚や手摺、カーテンレール、幅木や細かい見切り関係の取り付け、ロフトの手摺、縁側と玄関外側のデッキ床及び昇降階段の製作と取付け、車椅子対応の外廊下とスロープの製作取付けなどを担当。完了検査にも立会い、諸々のチェック事項にも対応しました。
県外応援チームが苦労したのが、木材加工場の確保です。板倉仮設ではほとんどの内部造作が木材で作られていますが、福島での造作を使いまわせない分もかなりあり、あらたに部材を加工するのに、それなりの場所と木工機械が必要となりました。そこで、現場近くの、川から離れていて被災は免れた地区に加工場を持つ村木大工さんの加工場を何度かお借りしました。
作業のあと、地元の職人さんたちと膝を交えてビールを飲みながら災害時のことを話しこむこともありました。一緒に働いていた職人さんの一人は総社市の隣の真備町の人で、被災した自宅には住めなくなったという事でした。そうやって知り合っていく中で、現場でも徐々にお互いの作業を手伝うようになり、道具や人手が行き来するようになりました。仕事帰りに宿を訪ねてきて、夜まで酒を酌み交わし語り合う仲となり、お互いの仕事や地域の話などで遅くまでもりあがりました。
こうした交流が、現場の流れをスムーズにしました。同じ大工職人同士、現場で息の合った作業をするためのコミュニケーションのしかたを、それまでお互いに探っていたのだと思います。手仕事による物づくりのとても肝心な部分だと感じました。
現代の「野丁場」で
チームがだんだんにできてくる
判断すべきことは山積み。けれど、指揮命令系統はない。そんな困難な状況ではありましたが、全国各地の力のある親方たちが集まっていただけのことはあり、多少の行きつ戻りつはあっても、現場は臨機応変に進行していきました。宿での毎晩の打合せで翌日の現場をどうするかを打ち合わせ、それぞれの判断で、ものごとを進める。その牽引力、推進力は、とても大きかったようです。
学校や病院などの大きな現場は、今でこそゼネコンがばっちり現場管理をするものですが、すべてが木造であった昔は「野丁場(のちょうば)」と言って、複数の親方のチームが寄り合って混成部隊であたることがあったそうです。今回の移設プロジェクトの現場には、そんな「野丁場」のような雰囲気があふれていました。
さまざまな地域の方言が飛び交う中、それぞれの地元で棟梁を張る立場の大工たちが、入れ替わり立ち替わり、交代で現場をつないでいきました。
安藤さんから頼まれて、大工仲間のみんなに総社に来てもらうよう、声かけする役回りになったんですが、だからといって、この現場の中心にいるとか、まとめてた、というわけじゃないんです。7年前にいわきや会津若松での板倉仮設住宅の現場を経験していたということで、たまたま、聞かれることに答えたり、間をつないだりしていましたけど。
責任をもつ立場になかったし、地元での用事もあったので、現場が終わる前に、ぼくは宮城に帰ったんです。そのあと、ずーっと居てくれた大野さんや井上君が、ぼくが声かけて来てくれたみんなの受け入れとか、調整とか、ほんとによくやってくれて、ありがたかったです。彼らが居なければ、この現場は乗り切れなかったと思います。
初めて会う、または、知ってはいても一緒に仕事をしたことのない者も多い中、互いに戸惑いながらも、そこは大工同士。完成に向けて、次第にまとまっていきました。番付や木組みといった共通の技術がベースにあるからこそでしょう。災害復興の場で生まれたこの「野丁場」は、親方についてきた若い弟子達たちにとっても、時には別の親方に怒られたり、あるいは励まされて自信をつけたりと、おおいに刺激を受ける場となったようです。
待っている人がいる!からこそ
乗り切れた
工期が短く、あせりが募る中、意思疎通がうまくいかず、すれちがいや手戻りもあったと聞いています。それでも現場の大工たちが、一丸となってまとまっていった原動力はひとえに「完成を待っている被災者の方たち」の存在でした。
現場隣の公民館には、そこを避難所として生活し、日々の工事の進捗を見ながら応援してくれる被災者がいました。若いイケメン大工のファンになって、避難所に招き入れるおばあちゃん。住む家を失い、途方にくれながら、応急仮設の完成を心待ちにしているおじいちゃん。
彼らの姿に「入居予定を一日たりと、遅らせるわけにはいかない」と、大工たちは夜遅くまで手を動かし、さまざまに早く仕事を進める工夫をし、ラストスパートをかけたのでした。「大工として人の役に立っている実感」をビシビシと感じながらの、充実した現場で、火事場の馬鹿力ならぬ、野丁場のチームワークが存分に発揮されたのです。
あたたかい雰囲気のある家並み
いい感じの路地もできて・・
できあがった総社の仮設住宅群。主要構造材や床材は「再利用材」。そこに、縁板、外壁板などに「新材」が加わり、民家再生現場に似た雰囲気もあります。安藤さんは「木だからこそ、部材を再利用していることがマイナスでなくプラスに、復興に向けてがんばってきたいわきの人たちの思いが、総社のみなさんに伝わっている」と言います。
建物のまわりにはウッドデッキやスロープがまわり、隣棟間隔がせまっているところにはいい感じの「路地」が生まれたり、被災された人同士が寄り添って住まう、いい雰囲気が生まれています。仮設住宅の一角に設けられた集会所には、関わった大工たち全員の名前が寄せ書きされた板がかけられるそうです。
災害から学ぶ
直せる、ゴミにならない家づくり
災害はもちろん、起きないでほしいもの。けれども、この日本に生きているかぎり、何年かの内に地震や台風に見舞われる宿命はまぬがれません。だからこそ、日本の建築は「人命を守ること」と「変化に対応できる融通性」が最優先であるべきでしょう。変形しても倒壊せずに粘ること、壊れたところは直せるよう造ること、万が一直せない場合にもゴミにならず土に還ること。その大切さを、あらためて考える必要があります。
耐震等級だけ見れば高い性能をもっている家でも、大水に浸かってしまい、大壁に覆われた断熱材や躯体の状態が、直せない以前に、直せるかどうか分からないことに愕然とします。と同時に、被災後に多くが粗大ゴミになってしまう現代住宅を見て、構造を覆わず、補修や点検がしやすい、無垢材をあらわすつくりかたの知恵をあらためて感じさせられます。
困った時は「お互い様」の
人と人とのつながり
阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨と、ここ四半世紀を振り返ってみても、たくさん災害が起き、そのたびに、自分たちの日常をいったんは置いて、被災地に駆けつける「助け合い」行動があちこちで起きています。「あの時に世話になったから、こんどは自分が動く」と、「恩送り」の気持ちで動く人も少なからずいます。
災害の多い日本に生きる限り、いつなんどき被災者になるか分からない。だからこそ、つねに「お互い様」なのです。被災地だけではむずかしい局面を「互助」の精神で乗り越える。それも、災害を避けられない日本で生きるひとつの国民性として数えあげたいと思います。
今回の仕事を通じてとても強く思ったことは、自分が親方から受け継いだ技術が、普段の仕事に留まらず、住み慣れた土地を離れたり緊急時であったりしても必ず活かせるという事、そしてそれが暮らす人の命を守るという事に直結しているという事でした。
その時々、そこの環境に応じて最適な答えをその場で作り出せる、お互いへの信頼と技術の中にある普遍性をつなぐ、それをずっと昔から繰り返して培われた技術が、大工を初め職人の中に息づいていることを感じました。
僕が初めに呼びかけをさせてもらった「職人が作る木の家ネット」、設計士の丹呉さんが続けていた「大工塾」、国交省の「大工育成塾」などの地道な活動があったからこそ、今回のような一流の大工が全国から集まり、一つになって仕事をやり遂げることができました。
災害列島と呼ばれる日本にあって次に命をつなぐためにも、このような技術とそれに向き合う心の伝承は決して絶やしてはならないと、強く思います。
大工は、直接的に被災地の方の生活再建の手助けをすることのできる、すばらしい職業であるということを、今回のようなプロジェクトの聞書きをして感じさせられました。