まず、まだの方はこの「板倉仮設住宅 移設物語」のpart1、part2を読んでいただくことをお勧めします。
そして今回は、part3として、この移設工事に関わった大工たちの生の声をお届けします。「行ってよかった!」と言う声が概ね多かったのですが、深く話を聞いていくと、反省点や今後に向けての課題も、見えてきました。今後につながるよう、しっかり書きますので、ぜひ最後まで読んでください。
見えて来た主な課題
(後半の[課題編]でより詳しく述べます)
(1) ハード面:再利用を前提とした仮設を広めるために
(2) 人材面:いざという時に動ける人材の育成とネットワークづくり
(3) 運営面:現場でのコミュニケーションを円滑にするには?
(4) 資材調達:緊急時に必要な資材が揃うためには?
[感想編]
まずは、大工たちの感想を、いくつかの論点に整理してお届けします。
まず、福島県いわき市から岡山県総社市への木造応急仮設住宅移転に駆けつけた大工たちの多くは「関われてよかった」と感じ「災害時に大工としてやれることがある」手応えを実感していました。
普段、施主の依頼に応じての家づくりを、ギリギリのスケジュールの中で切り盛りしている大工たちが、その間を縫って何日かずつ駆けつけることは決して「余裕のある中での行動」ではありません。休みを返上したり、施主に事情を説明したり、なんとかやりくりして、進行中の現場を少しの間止めてのことです。日当や交通費が支給されるとはいえ、大工たちを突き動かしたのは「大工として今、何ができるか」という内的な衝動でした。それは「人の為に」というよりは、職能を通して自らの社会的な存在意義を確認する「自分の為」の行為でもあったようです。
山下 大輔さん (山下建築・鳥取県) 今回、プロジェクトに参加させて頂いた事とても嬉しく感謝しております。自分達の仕事が少しでも人の為になるとてもやりがいのある仕事だと改めて再認識しました。
金田 克彦さん (大」建築・京都府) 声をかけてもらって、行かせていただき、自分の持っている技術を活かせて、よかったです。
須賀 大輔さん (沖野建築・高知県) 大工ができることってある、という実感があり、嬉しかったです。
各務 博紀さん (各務工務店・岐阜県) 行かせていただいた、うちの若い衆たち、目つきが変わって帰ってきました。「大工であることが人助けになる」ということを感じてきたみたいです。災害はない方がいいけれど、災害時の大工の役割に気づけたのはよい経験でした。
いざという時に駆けつけ
ひと肌脱ぐ。それが大工
今でこそ忘れられているかもしれませんが、このように動くということは、災害の多い日本の大工にとっては昔から「当たり前」だったようです。
綾部 孝司さん (綾部工務店・埼玉県) 明治26年。川越では、3300棟のうち、1300棟が焼ける大火がありました。その後、川越は、蔵の町としてて再生するのですが、その工事には、遠方の大工がたくさん手伝いに来ていたようです。「私の家はね、横浜から来た大工さんがつくったんだよ」と、おばあさんが125年前のことを語るんです。ありがたい気持ちがずーっと続いているんだなあ、と感動しました。「あそこで困ってるらしい、みんなで行こう」って、インターネットもない時代に、口コミ、人づてで駆けつけたんですね。大工って、そういう存在だったのかなあ、と改めて考えさせられました。
宮内 寿和さん (宮内建築・滋賀県) 助け合いの精神。日本人の素晴らしい国民性です。支援する側、される側もお互いの事を想い合っていました。復興に向けて、被災した方たちの故郷をみんなで守っていきたいですね!
東日本大震災後「役に立ちたい」という思いを抱いたのは、木の家ネットやその周りの大工だけではありませんでした。大工工務店系の組合が動いたことで、それまでは「仮設住宅といえばプレハブ」だったのが「大工たちの手による木造応急仮設住宅」が建てられるようになりました。そして、木造応急仮設住宅が今後も建てられていくための「仕組み」も、出来てきています。(詳しいことは、part1 概要編:東日本大震災後、大工が造る木造仮設住宅が増えたわけ でお伝えしています)
「支援に行って、感謝された」ことより「大工として応援に駆けつける機会をもらえたことに感謝したい」という声が今回多かったのは、それが、本来の大工の使命に触れる経験だったからなのかもしれません。
増田 拓史さん (muku建築舎・三重県) 仕事をやりくりして、自分はなんとか行けた。行きたくても行けなかった人もいたと思う。行ける状況を段取りしてくれたマイケルに、ありがとうと言いたい。
綾部 孝司さん (綾部工務店・埼玉県) 声をかけていただいたマイケル、きっかけをつくってくださった安藤先生に感謝しています。
共通の技術をベースに
全国各地から集まってきた、初めて会う同士の大工も多い現場。親方クラスの人材が同時に何人も働くという状況は、普段はそれぞれ、親方と多くても数人の弟子という少人数で動いている大工たちにとって、刺激的な場となりました。夜、宿舎で翌日の段取りをしたり、よもやま話に花を咲かせたり。
高橋 一浩さん (株式会社 木神楽・三重県) ぼくらには経験ないけど、昔の話にきく「野丁場(のちょうば)」って、きっとこんな雰囲気だったんだろうな。
増田 拓史さん (muku建築舎・三重県) いろんなところから来ている、様々な年齢の、はじめて会う大工達と知り合えて刺激になった。
山本 耕平さん (杣工社・岡山県) 方言やスタイルの違いに戸惑いながらも、お互いに思いやり、時に衝突しながらなんとか完成に向けて仕事を進めていました。
今井 航希さん (増田拓史 弟子・三重県) 大勢の先輩大工さんといっしょにはたらけて、話もたくさんきけて、いい経験になりました。こんなに人が集って、すごいと思います。
知らない同士でも、お互いに多少流儀の違いはあっても「同じ大工として」共同作業ができるのは、日本の職人が築き上げてきた、木を扱う共通の建築技術がベースにあるから。そして、様々な現場で、臨機応変に物を考え、判断してきた親方クラスの人材が集まっていたからこそ、周到な準備や資材調達が望めない災害復興という「火事場」をも乗り切れたのでしょう。
小松 匠さん (松匠建築・高知県) 知らん者同士集まっても、そこそこの大工であれば、材料とおよそこういう風にしてほしいということを聞いただけで、仕事をやってのけられる、共通の技術があるということが、すばらしい。その中でもその人なりのちょっとした工夫をしていたりして「へえ、なるほどね」という場面もありました。そんな風にして、みんなでひとつの目標に向かって、短期集中、一気呵成に作業するのは、昂揚感がありましたね。そんな中で自分も遜色なく仕事できたことが嬉しかったです。
宮内 寿和さん (宮内建築・滋賀県) 人は入れ替わる、資材も揃ってない、何をせいという指示が誰からあるわけでもない。けど「ここ、やっとくわ」と、間に合ってないところを自主的に引き受けて進めてく、ということができるんですわ、みんな。そこが、普段から、現場をまわしてる人間が集まってるだけのことはあったね。
宮村 樹さん (山口県) いろいろな組織の方と災害復興に向けて協力できて、よかったです。ありがとうございました。
金田 克彦さん (大」建築・京都府) 初めて会う大工も多かったけれど、いいチームワークができていました。
マイケル 杉原敬さん (木工房瑞・宮城県) その時々、そこの環境に応じて最適な答えをその場で作り出せる、お互いへの信頼と技術の中にある普遍性をつなぐ、それをずっと昔から繰り返して培われた技術が、大工を初め職人の中に息づいていることを感じました。
山下 大輔さん (山下建築・鳥取県) 普段県外の大工さん達と一緒に仕事をしたり交流する機会はあまり無いのですが、夜、部屋に集まり沢山の方と仕事の話が出来、朝の作業から終日を通してとても有意義な時間を過ごせて、良い経験になりました。
和田 洋子さん(記録班) ((有)バジャン・岡山県) サッカーのA代表の試合を見ているような、普段それぞれの現場でがんばっている親方が結集した、すばらしい現場でした。きつかったり、しんどかったりということもいっぱいあったとは思いますが、すごく、気持ちにあふれているのを感じました。腕のいい大工さんは、どこを撮っても絵になります。ただ、鋸で切っている、サシガネをあてているだけでも、かっこいい!
待つ人がいるから頑張れた
何もかもが順風満帆というわけではありませんでした。現場に来る大工、去る大工がひっきりなしに動いていて「今ここに何人居る」ということすら把握できない状況の中、行き違いや衝突もあったようです。しかも人の言うことを聴く以前に「俺が」ということを言う人も少なくはない、大工たちの集まりですから。
山本 耕平さん (杣工舎・岡山県) 一つの組織が現場をまとめるのとは多分に違って、たくさんの無駄ややり直しがあったと思います。しかし日々入れ替わる大工さんを親方役の大工さんがなんとかまとめ、去りゆく大工さんもなるべく良いバトンを次に繋げるよう配慮されていました。流動的な職方の移ろいがばらけることなく移築工事完成まで辿りつけたのは「木の家ネット」のつながりが集めた大工さん達は大まかな範囲ですが同じ方向を見ていたからではないでしょうか。連日催された夜会は時にくだらない話に笑い転げるだけの時もありましたが、各々が今回の移設に即して思い描く仮設住宅の仕様や方法、在り方などの大変貴重な意見を親方衆を始め、若手大工や弟子たちみんなで交換、共有できたのは大きな収穫でした。
それでも、なんとか引き渡しに間に合ったのは、被災した方々が待っていると言う存在感でした。避難所となった公民館のすぐそばで施工する大工たちの様子を、避難所に身を寄せている人たちが、日々、熱い目で見ていたのです。
須賀 大輔さん (沖野建築・高知県) 自宅を失って避難所ぐらしをしている人たちがて「嬉しい」「入れるのが待ち遠しい」「最後の一週間が長い!」と言う。それを聞いて「がんばらな!」と気持ちを奮い立たせました。
丹羽 怜之さん (丹建築・三重県) 造作工事の終盤、期限が迫る中、現場はかなり疲れ気味・・という時期に参加。それでも、待っている人がいるんやから、人数でかかって、わっと仕上げて、間に合わせよう!という雰囲気がありました。どうやって乗り切ろうかと、休憩時間や夜の打合せで意見を交わし合い、時にいら立って一触即発、いう場面になることもありましたが、なんとか収束しようと、みんな、よく工夫をしていました。
被災者の心が和む仮設ができて
よかった!
そして、出来上がった板倉仮設については・・
宮内 寿和さん (宮内建築・滋賀県) 板倉仮設。これは、いい。プレハブとは断然違う。大変な時だからこそ、被災された方の心を癒せる仮設住宅に住んでもらいたい。
山下 大輔さん (山下建築・鳥取県) 想像以上の出来栄えに驚き、住んでみたいと思えるような建物でした。出来たばかりの仮設住宅の外のアプローチとウッドデッキを担当したので、住んでおられる方と頻繁に顔を合わせる機会がありました。被災されているにもかかわらず、仮設住宅を造ってもらったという事、とても感謝されており、いつも笑顔で私達に話されて、元気をもらいました。
今後に向けての課題はいろいろあるにせよ、仕上がった板倉仮設住宅は、造った大工にとっても、住む人にとっても「仮設の侘しさ」のない、木のぬくもりあふれる良いものであったようです。
東日本大震災以降だけでも、大阪の地震、西日本の台風被害、北海道での地震・・と災害が続き、その度にそれまで住んでいた家に住めなくなる人が出ています。避難所から、仮設住宅に移っての仮住まいの後は、自力で家を再建するなり、公営や民間の賃貸住宅に入居するなり、しなければなりません。
誰もがいつ何時、被災者にならないとも限らないこの日本で、どのようにして被災者を応援していけるのか。これは大工にとって大きな課題であり続けます。
沖野 誠一さん (沖野建築・高知県) 高知県にも南海地震が来ます。そうなれば、自分が皆さんに来ていただく立場になります。地元の大工としてがんばらなくてはと思ってます。皆さんも、その時には、応援よろしくお願いいたします。
次ページでは、今後に向けての課題を4つの論点に整理します。
(1) ハード面:再利用を前提とした仮設を広めるために
(2) 人材面:いざという時に動ける人材の育成とネットワークづくり
(3) 運営面:現場でのコミュニケーションを円滑にするには?
(4) 資材調達:緊急時に必要な資材が揃うためには?