大工棟梁
有限会社綾部工務店 綾部孝司さん
1966 埼玉県川越市生まれ
1989 東洋大学工学部建築学科卒業
建築企画設計会社にて、企画・設計
1994 退社後、設計事務所にて住宅設計
1996 家業の工務店にて、大工となる
2棟めから伝統的な家づくりをする
以来、設計から施工まで、一貫して行う
蔵の町、川越の大工の三代目です。
おやじも、おじいさんもこの地元、川越の大工です。歩ける範囲におじいさんがやった家、おやじがやった家があります。うちも、施主も、ずっと同じに地域で生きている。典型的な昔ながらの大工のあり方ですよね。クルマで10分も走れば、毎年400万もの観光客が蔵づくりのまちなみの雰囲気を楽しみに来る小江戸 川越のまちがあります。小さい頃からそういった空気には自然と親しんで来たように思います。
おやじは伝統的な技術をもっています。ただ、意識して選択していたというよりは、本人にとってあたりまえのこととしてやっていたという感じで、ぼくらの世代で伝統構法をやっている大工ほど環境意識が高いわけではない。時代の流れの中で、グラスウールや合板フロアといった新建材も使ってはいました。それでも、ハウスメーカーの下請けやプレカット材を組み立てるような仕事はせず、一棟一棟、注文を受けて手刻みで建てるというやり方は崩してこなかったのですから、大工としてのスジは通して来た人ですよね。
川越の郊外で、どこのうちでもやっているのと同じように、田畑もあたりまえのこととしてやっていました。家業の大工を手伝ったのは夏休みぐらいでしたが、田畑の手伝いは当然のこととしてこどもの頃から日常的にやっていました。米も野菜も自給自足です。うちの見習いは田植や稲刈りもやりますよ。自分の食料は自分でつくり、大工として仕事をする。それがぼくの原風景です。
ヨーロッパへの旅。
美しい街並をつくりたい!
大学は建築学科ですが、設計コースではなく、建築経営コースに進みました。どういう建築をつくり、それでどう採算をとるか企画する勉強をしました。当時は建築や空間をプロデュースする仕事に就くことが目標でした。
大学生になると一人で動けるし、時間もできたので、京都奈良へ旅をしました。古い建物は好きでしたから。川越生まれ、川越育ちということもあり、古い建物やまちなみの美しさへの愛着はもともとあったのですね。
そして、ヨーロッパに一ヶ月への旅。言葉が通じないながらも、多くの国をまわりました。古い街並を保存しようという意識が高くて、どこの国に行っても、自分の国の自慢をするんですよね。じゃあ、自分に日本の何が誇れるのか、と思いましたよね。そんなこともあって、日本文化に興味を持ち、建築も単体ではなく、街並や都市計画に興味が向きましたね。
商業建築の道へ。
「むなしさ」を感じて、やめる。
東京天王洲のアートスフィアも、当時の綾部さんがしていた仕事の一つ。それも2006年3月で幕を閉じ、2008年6月現在は「天王洲 銀河劇場」となっている。
やってみると、もう、経済最優先の世界なわけです。美しい街並を考えたい、と思っていたのですが、現実には短命で大量のゴミをつくるような店をたくさんつくっているのが現実だった。ヨーロッパには数百年という歴史的な街並で商業が成り立っていたりしますが、現代の日本の商業は長持ちしない。はやりすたりとともに、建物の寿命よりも早く、もっても10年、もたなければ半年で壊されて行くんですよね。
その後も知人に誘われて設計事務所を一緒に2年間ほどやったりもしました。ツーバイフォーで、モダンな店舗や住宅をつくったり、職人も外国から呼んでの輸入住宅を建てたりね。けれど、もともとは数百年もってきた街並に憧れてこの仕事を選んだのですから、作っては壊しという「むなしいもの」をつくっている自分に嫌気がさしてきてね。すっぱりやめて、川越に戻りました。
実家の工務店に帰り、伝統木造の世界へ
川越に戻ろうと決心した時に強く思ったのは、「残したいと思う建物を建てたい」ということでした。世間の流れからいくと、タイル張りに見せかけたサイディングに覆われた新建材の家ばかりが増えていく、それが20年もすると味わいとはほど遠い、さびれた、薄汚い家並になってしまうのではないか。その時にはじめて失ったものの大きさに気づくのか。そんなのは嫌だ!
いくら耐震性が高くても、CO2削減につながっても、それだけでは足りない。京都、奈良の旅で見た美しい建物のように、長くもつと同時に長くもたせていきたくなるような家がつくりたい。そんな家が並んで街並になることを夢に、まずは一軒一軒の家をつくろう。50年、60年経って美しく時を重ねていける、木と漆喰の家をつくろう。実家が工務店なんだから、できるはずだ。それを自分が生涯かけてやっていくべき仕事だ、と心を決めて、親父に教わりながら木の家づくりに取り組み始めました。
施工経験もない中、遅いスタートですから、自分が設計して親父や大工に頼むのがいいのか?というためらいもありましたが、やはり自分で設計から施工までをやりたい、という思いが勝ちました。陶芸家だったら、自分で発想したものを土をいじってつくりこむところまで自分でやりますよね?木造だけに特化すれば、それもいいかな、と思って、踏み切りました。やると決めたら、やれます。むずかしい、やれないようなことではないです。分からないことは、その場その場で訊きながら解決しながら、とにかく前に進みました。
その頃出会った本の一つに、ジョン・ラスキンの「建築七燈」という本がありました。「建築は自然のものでつくらなければいけない」と書いてありました。やっぱり、木を隠してしまうのではなく、木を木として活かしきる木の家づくりに向かおう、ということが目標となりました。
木と木を活かすとは、素材同士の縁を大切にし、「木と木を組んで、木で締める」という先人の知恵に習ったやりかたに従うことです。木同士のめり込みや滑り特性を理解しながら組むことで、木のもろさをカバーし粘り強さを発揮します。金物は木と相性のあまり良くない素材です。木の中にかたい金物をめりこませていけば、引っ張った時に木の方が裂ける。あるいは、金物が結露して水分を呼び、木の腐朽を早める。木という素材をいたわりながら使うことを考えて行くと、金物も極力使いたくない気持ちになってきました。知らない頃は漠然と、同じ「木造」としてひとからげに見ていたのが、細い木を組んで金物で結合している普通の建築現場を見ると「木がかわいそう」と思えてくるようになってきましたね。
で、川越に戻って2軒目からは、伝統的な継手仕口を使った木組みの家づくりを手がけはじめました。振り返ってみれば、いきなり・・ですが、もうそういう確信をもってしまっていたので、それしかやれなくなっていたんですね。そう確信した自分になってみたら、いろいろな出会いに恵まれ、たくさん吸収することがあって・・その延長上に今の自分が、います。
伝統木造でがんばっているみなさんとの
ご縁で、急速に方向性が見えて来た。
地元に戻ったのだから、それが「ひっこんじゃった」ことにならないよう、自分からいろんな会に顔を出した方がいいなと思って、積極的にこれは、と思う人に会ったり、会に出たりするようにしました。スタートの遅かった自分ですが、そうした出会いから吸収したものを実現していくというよい道すじに恵まれました。
生活文化同人という会の大平建築塾に参加し、そこで吉田桂二先生をはじめ、いろいろな方たちと知り合い、木造の世界が今どうなっているかということをいきなり知ることになったのです。
みんな今では職人がつくる木の家ネットのメンバーですが、その頃「私家版仕様書」を出したばかりだった、松井郁夫さん、小林一元さん、宮越喜彦さんのお三方ともそこで知り合い「こういう家をつくるつくり手が足りないんだ」という話を聞いて、「よし、自分がそういう木の家づくりのつくり手になろう」と強く思いましたね。
ちょうどその頃に出会った、地元からほど近い都幾川村で尺角材を主体に木組みで家を建てるという都幾川木建の高橋さんから、大工として伝統構法をやっていく技術面ばかりでなく精神的な面までをいろいろ教えていただく機会もあり、急速にのめりこんでいきましたね。それで「帰って2棟目は、いきなり伝統木造」のつくり手になっていったのですね。
川越でがんばっている人たちとの出会い
進むべき方向性が見えてくると、自分の育った川越でも、川越らしい街並を保存活用して行こうとしている団体(蔵の会)ががんばっているということが分かり、自分も活動に加わっていきました。2008年11月には木の家ネット恒例の「総会」がありますが、川越がその会場となります。「小江戸川越総会」と題して、蔵の会のみなさんとも力を合わせた総会にしたいと、木の家ネットの埼玉県メンバーみんなで準備に取り組んでいます。
大工として関わって思うのは、美しい街並として残っている建物はどれも、昔の職人が汗水流していいものをつくってきたからあるんだ、ということです。一軒一軒の「本物」が連なって、街並になるわけですからね。そのためには、そういう建物がつくれる職人が、育っていることが必須です。自分を含め、育ち合うような仲間づくりが大事です。
保存地区の外観だけがよければそれでいい、ということではありません。その建物そのものが貼りぼてではなく、きちんとした「本物」であることが大事です。保存地区だけでなく、川越市全体をそうした美しい街並にしていこう、それを川越全体の魅力にしよう、という動きにまで広がっていきつつあります。川越の大工の家に生まれたこと、そのことを活かせる立場にある自分が、本当に恵まれていると思います。
もうひとつ、地元に帰って進むべき方向性が決まって来た2年目に、ご縁があって庭師の職人の家に育った智実さんと知り合いました。茶道が好きで、日本の文化を大切にしたいという強い思いをもった彼女と、共感しあえることがたくさんあり、結婚しました。彼女と「こうありたいね」と語り合ってきたことを、家族としていっしょに実現していけているのは幸せなことです。経済的な大変さ、時間的な余裕のなさなど、苦労をかけることも多いですが、彼女が理解し、応援してくれていることが、自分にとって大きな力になっています。