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設計士・米谷良章さん(米谷良章設計工房):設計を通して人とつながりたい


設計士米谷良章設計工房 米谷良章さん

1987 京都工芸繊維大学卒業。現代計画研究所に入所、東京事務所に勤務 1993 現代計画研究所大阪事務所に転勤 1995 阪神淡路大震災 2000 米谷良章設計工房発足

インタビュー:2007年8月1日 取材執筆:持留ヨハナエリザベート

大工の家に生まれて

兵庫県宝塚市にある、植木の生産地に生まれました。父親は地域で年に1〜2棟ぐらいを手がける「地元の大工」で、祖母や母親はカイヅカやサツキなどの植木をつくって出荷していました。春には植木の出荷や植え替えの農作業をものごころついた頃から手伝っていましたし、中学にあがる頃にはホゾ穴彫りやラス板貼りなど、父の大工作業も手伝うようになりました。サラリーマン家庭とは違う、自営業、それも、ものづくりの環境に育ったのは、自分の原点になっているでしょうね。

設計の中で、一番楽しいのが、大工さんとのやり取り。

小さい頃から工作が好きで、低学年の頃までは父親のように大工になりたいと思っていました。ところが、小学校3〜4年頃にオイルショックがあり、植木の値段がいきなり10分の1に暴落。うちも植木を作っていたので大変だったし、周辺の農家も不況で普請などできないので、大工の仕事も減る時期がありました。父も一時は、請負いをやめて、工務店に入ろうかと考える瀬戸際までいきました。子どもながらに「生産農家や職人は、世の中の経済の影響を受けて大変そうだ・・」と感じたものです。そして、とりあえず進学した方がいいかなと思い、親たちにも頑張ってもらって、高校、大学に進みました。

大学に行く時には「ものつくるのも現場が好きだし、設計もおもしろそう。建築科に行こうか」ぐらいの気持ちで、建築学科に進学しました。京都工芸繊維大学を選んだのは、建築学科といっても工学部には行きたくない気持ちがあったからです。京都工芸繊維大学は理数系というより工芸系の要素が強く、設計ができる人材を育成するアトリエ教育が特色というのが、よさそうでした。

国宝級の木造建築に囲まれて 京都で学んだ、大学時代。

入学してみると、西洋美術史、日本美術史、建築史などの授業も充実していたし、デッサンなど、手を動かす授業もたくさんあり、ものづくりが好きな自分の性には合っていました。

在学中は「ポストモダン」の建築が流行っていた頃でした。けれど、自分にはその主義主張もぴんと来ないし建物も「なんや、これ?」という感じでした。そして「で、一体、何を根拠に設計したらいいんだ?」と悶々としていましたね。好きな建築家といえば吉村順三さん、安藤忠雄さんなどの住宅作家。京都ということもあって、古いものに惹かれ、違う研究室でやっている民家調査なについて行ったりもしていました。

国宝がたくさんある京都にある大学ということで、大徳寺の茶室や清水寺の工事現場などを見学させてもらえる授業もありました。そのありがたさが分かるようになったのは、関西を出てからでしたが。今にして思えば、木造に目を向けさせてくれる機会が転がっていたんですね。

「民家型構法」に取り組む 現代計画研究所に入所

当時の流行の建築に疑問を抱いていたこともあり、進路を決めなくてはならない3回生の3月にはもう自分は設計事務所っていうタイプじゃないな、と思っていたのですが、大学の先輩にたまたま設計事務所のアルバイトに誘われたんです。バイトはずっと家庭教師ばかりで、設計事務所には行ったことがなかったので、一度ぐらいは経験してみてもいいかなぐらいの気持ちで誘いに乗りました。それで行ったのが、藤本昌也さんが率いる現代計画研究所の大阪事務所だったのです。

現代計画研究所はニュータウンなどの都市計画や、RC造の団地から戸建て用地に立つ木造戸建て群まで、いろいろなスケールを扱った仕事をしています。その頃、現代計画研究所は、一戸建てや「国産材ハウス」の設計を通じて木造住宅づくりのシステム「民家型構法」を提案しており、その成果を住宅建築の別冊29号「民家型構法 理念と実践」という一冊にまとめていた頃でした。そんな時期に、僕が卒業を迎えようとしていたんですね。卒業する年の始め頃、僕の親が大工だし、元気そうだということで、大阪事務所の所長が東京「東京勤務になるが、入所しないか」と誘ってくれました。一度は東京に行ってみたいとも思っていたので、すぐに東京の藤本さんに会いに行きました。

現代計画で最初に担当させてもらった、兵庫県住宅供給公社の10戸の建て売り住宅。

藤本さんは自分の作品性にこだわるというよりは、もっと社会的な文脈で設計という行為をとらえておられるんですね。「戦後大量に植林された杉が伐期を迎えるというのに、国産材は使われず、山は荒れて行く一方。断面の小さい外材と金物と新建材による低寿命の家づくりになってしまっている。このような山と木造住宅の現状を解決できるシステムづくりを、僕はしていきたいんだ」と語る藤本さんの広い視点と戦略的、論理的な思考に触れ、すごく感動したんです。そうした問題意識の上に立って、藤本さんは大工棟梁の田中文男さんと共に「民家型構法」という、国産材、地域材を活かした、真壁で構造材をあらわしにした木の家づくりを、量産可能なシステムとして提案していたのです。

事務所に入ってすぐ、先輩の宮越喜彦さんの下で「民家型構法」を担当することになり、田中棟梁とその頃棟梁の番頭役をしていた渡辺隆さんに、木構造の相談をしにいくという仕事が始まりました。その初仕事は、兵庫県住宅供給公社の建売住宅でした。現代計画でも初めて手がける戸数のまとまった分譲住宅であり、ある一定の量の木材を扱うことなので、山と家づくりをつなぐシステムの確立が要求される仕事でした。戸建て10戸分の木を徳島の和田善行さんに入れていただきました。事務所に入って早々、伝統構法を今の家づくりに活かすことに関わる色々な人(木の家ネット発足メンバーの何人かがそこにいました)に出会うことができて、とても刺激的な日々でしたね。東京事務所には1993年、自分の希望で大阪事務所に移らせてもらうまでの6年半ほど勤務しました。

大阪への転勤、そして、阪神・淡路大震災

関西に戻って1年半後、僕が設計者として生きて行くにあたって、忘れることのできない体験に遭遇しました。阪神大震災です。住んでいた宝塚駅南口の団地では家財がばたばた倒れるぐらいで済みましたが、ちょっとしか離れていない実家周辺は震度7の地域で、隣の人は亡くなっています。自然の力の凄さを思い知らされた出来事です。

低い屋根裏のある厨子二階の古家や、文化住宅など。たくさんの家がつぶれ、風景が一変しました。6000人以上もの方が亡くなりましたが、その多くは建物による「圧死」。建物が凶器となって、人が亡くなられたんです。建築技術者として大きなショックでした。

地震に遭ってもせめて 「人を死なさない家」でないと

なぜ、建物が凶器になったのか。一つ一つ壊れた家を調べていくと、ほとんどが、横から揺さぶられることを想定していない造られ方をしているんです。筋交いを使っていながら、釘が効く位置に打たれていない。土壁であれば、2〜3段しか貫を入れていなかったり、5分以下という薄い貫しか入っていない。そんなのがたくさんありました。構法的に「伝統的」か「現代的」かというより、もっと、原理的な問題で壊れました。

震災当時、民家型構法の設計に多く関わっていましたので、構造要素に興味がありました。でも、僕の知る限り、貫などの実験データーは乏しく、一般の設計者が構造はこれでいける、という根拠として気軽に使える基準も法的に整備されていない状況でした。伝統的な技術が身体に入っている世代の大工さんたちは「これでいいんだ」と言う。構造をやっている人に聞くと、ある人は「伝統的な木構造は有効」と言う。別の人は「伝統的な構法や木構造は、RCやS造とは同じようには、構造計算に乗せられないから、分からない」と言う。・・と、伝統的な構造要素について根拠を求めようにも、その評価は錯綜していました。で、しかたなく、数少ない実験データーや、数値的な根拠を元に、壁倍率へ適用して、建物全体をと拡大解釈するというような状況だったと思います。結局、議論は多くあっても、3次元的な構造物として、科学的にはよく分っていなかったんですね。

そんな時に震災がありました。「伝統的な」構造要素に強く惹かれていた僕ですが、震災の情況の中にあっては構造的な手法が「伝統的である」かどうかは、大したことには思えませんでした。むしろ、もっと先に考えるべき構造計画的なこと、建築物の条件に応じた的確な手法の選択、つまり筋交いを打つのであれば釘はこう打つべし、とか、土壁にするのであれば貫はこれくらいの間隔でこれくらいの太さのものを入れるべし、というようなことがまずはきちんと実践されるべきだと、強く感じました。住宅は、多少の変形は許容できても、ぺしゃんこになってはならないのですから。 それ以来、「伝統的な工法」というひとつの手法に「こだわりながらも、拘らないでおこう」と思うようになりました。

いまだに、「伝統的(貫、差し鴨居など)」VS「それ以外(筋交い、構造用合板)」の二者択一のような議論がありますが、不確かな根拠を元に話し合いを重ねていてもしかたないと思います。自分たちが好きな手法にかじりついているだけではなく、客観的な視点から評価できるようになることが必要です。そのための実験や研究を重ねてくださっている研究者もおられます。評価できるに至るまでの道のりはまだまだ長そうですが。けれど、これ以上「家が人を死なせてしまう」ことのないためには、必要なことですよね。

壊れたのは「家一戸」ではなかった。

また、震災の被害は、経済的な序列に明らかに比例しました。裕福な家がある地域は、被災率が少なく、借家が集中する下町は被災率が極めて高かったです。特に下町の古い木造の密集地での被害は、深刻でした。自分の家に耐震強度があっても、隣の家が倒れてくるのですから、敷地のゆったりとした郊外とは、事情が違います。隣家に火が出れば、延焼の可能性も大きいです。道路を倒壊した建物が塞いで消防車が入って来ることすら出来ないのですから。

また、地震被害の影響は、人が亡くなったり町や建物が壊れるといった物理的なものだけでなく、人間関係にまで及びました。たとえば、被災したマンションで建替えか?修繕か?ということで合意に達することができずに紛糾したり、接道条件などから建替えが不可能になってしまう地域ができてしまったりという例も数多くありました。生活の基盤である住まいが被害に遭う、ということが、いかに暮らしに大きな影響を与えるか。本当にいろいろなことを考えさせられました。


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