2. 東日本大震災の発生
〜「手のひらに太陽の家」構想の誕生
「日本の森バイオマスネットワーク」の
全国の仲間にインターネットで呼びかけて
ヨハナ 木の家ネット ヨハナ:2011年3月11日に震災が起き、東北地方の沿岸部が壊滅的な被害を受けている様子を見て、誰もが「何かしなくては」「自分に何ができるだろう」思いましたよね。ルートがある人は救援物資を送る、動ける人は現地に行ってボランティアをする、なにもツテがなくても寄附や募金をする、さまざまな動きがありましたが、大場さんはその時、どうされていたのですか?
大場 大場江美さん:同じ宮城県内の沿岸部が津波でめちゃめちゃになったと知り、何とかしなきゃ、と居てもたってもいられない気持でした。といっても、自分たちも津波にこそ遭ってはいませんが、電気もこない、ガソリンもない、仲間と連絡も取れない、という状況で、さて、どうしようか!というのがスタートでした。
ヨハナ 同じ宮城県内ですものね。動くに動けない状況だっだでしょう。
大場 なにしろ、電気がまったく来ないので、ネットは満足に使えない。電話もめったにつながらない。困りましたね。栗原から鳴子温泉を越えて山形まで行けばなんとか通じるという状況の中、たまにつながる電話で話したり、メールよりスピードの早いツイッターに状況を書いたりしながら、「日本の森バイオマスネットワーク」の仲間たちに呼びかけました。
ヨハナ 「日本の森バイオマスネットワーク」とはどのような団体なのですか?
大場 森林資源の活用を通して循環型社会をつくりだしていこうという主旨で2009年に発足した団体です。森林は、家や家具の材料になる木材はもちろん、薪や木質ペレットといった再生エネルギー源を産出し、子ども達の環境教育の場ともなります。ネットワークを発足した時のスタートメンバーの顔ぶれも、佐々木豊志さんはくりこま高原自然学校を長年運営してきていますし、古川正司さんはペレットストーブを製作するさいかい産業を起こした方、うちは工務店と、まさにこの森の多面的な性格と呼応しています。可能性をもった森林資源を、使っていく暮らしを広めることを通して山を再生しようということで、植林活動や森の手入れ、持続可能な暮らしを実践するための講座、親子で森の自然を楽しむイベントなどで「森とつながる意識」を育てることに重点を置いた活動をしています。
佐々木 佐々木豊志さん:2008年6月14日「岩手・宮城内陸地震」で私が主宰するくりこま高原自然学校は被災し、避難指示が出されました。結果的には二年もの間、山から下りての活動を模索せざるを得なくなり、里に民家を借りてどのような事業ができるかを模索し、農山村の活性化に支援する内閣府の「地方の元気再生事業」に3つのプロジェクトを提案して、助成金を申請しました。その中のひとつとして荒廃した森林を活用するプロジェクトがあり、そのプロジェクトの委員会が、バイオマスネッネットワークの母体となったのです。
ヨハナ 「木質バイオマス=森林資源」を真ん中に集まった異業種が協力して活動している団体なんですね。どのような活動を展開しているのですか?
大場 森林資源を、使っていく暮らしを広めていこうということで、植林活動や森の手入れ、持続可能な暮らしを実践するための講座、親子で森の自然を楽しむイベントなどで「森とつながる意識」を育てることに重点を置いた活動をしています。
佐々木 「日本の森バイオマスネットワーク」のこれからですが、「Treesm」を提唱していきたいと考えています。「Treesm」とは、木材のトレーサビリティーのことで、その木を誰が植えて、どのように育てたのか、誰が伐採したのか、という、一本の木の入り口から出口までの履歴が、それぞれの産地ごとに分かるようにしたいのです。森と人とが、顔の見える関係でつながっていけたらいいな、と思っています。
「日本の森バイオマスネットワーク」フリーペーパー
「ふんわり」
「自然と暮らし、自然に学ぶ、豊かな暮らしを考える」というキャッチコピーの通り、日本の森の話、季節の自然遊び、木の家づくり、森のようちえんの活動など、暮らし全般にわたる話題が満載。これは宮城版で、山梨・岐阜・首都圏でも、それぞれの地域に密着した内容で作っている。
日本の森バイオマスネットワーク 公式サイト
大場 で、停電がずーっと続く中で、奇跡的に連絡がつながった時に断続的な情報をネットワークの仲間に流して「宮城にいる自分たちが実働部隊として動くから、支援を頼む!」とお願いしました。ホームページを管理してくれている東京在住の仲間が頻繁に情報を更新してくれたことが、多くの方からの支援を寄せていただくことにつながりました。ネットの力、それ以上にネットでの発信をがんばってくれる人の存在に助けられました。
石油や電気を使わないで暖をとれるよう、
ペレットストーブを届ける
ヨハナ で、どのような支援に動いたのですか?
大場 寒い時期でしたよね。電気が来ないので、電池で聞くラジオからしかニュースは入らなかったのですが「津波で助かったのに、低体温症で亡くなる人が続出している」ということをラジオで言っているのを聞いてしまったんです。
ヨハナ 灯油も電気がなくて、暖をとることができない避難所もたくさんありましたものね。
大場 「倉庫にはペレット燃料がたくさん、ある。ああ、ペレットストーブさえあれば、暖を取れるのに!」と。その瞬間に、ペレットストーブを沿岸部に届けよう!と決めたのでした。うちにはペレットストーブはないので、バイオマスネットワークの仲間で新潟でペレットストーブを作っているさいかい産業の古川さんに連絡をとろうとしたんですが、これが、なかなかつながらない。
ヨハナ 三陸海岸沿岸部の木の家ネットメンバーの安否確認をとろうとした時も同じような状況で、ほんとにつながらなかったですよね!「最終的には災害伝言ダイヤル」を利用した記憶があります。
大場 何回かけてもつながらない、ということが続いているうちに、たまたま、古川さんからのコールバックがあったんですよ。震災二日目ですよ!ほんとに電話がつながらない時期だったので、びっくりしつつ、とっさに「代金後払いでペレットストーブを5台送ってほしい」とお願いをしました。そしたら古川さんは「何を言ってるんだ、20台協力させてよ!これから徹夜でがんばって組立てておくから、トラックで取りに来て」とおっしゃってくださったんですよ。ありがたかったですね。で、栗原からトラックを出して山形経由で新潟まで取りに行き、全国から集まった支援物資とペレットストーブと燃料用のペレットと薪で入れるお風呂を、沿岸部に運びました。これが初回で、その後さいかい産業さんからもう20台無償で提供していただいたのと、個人から寄附としていただいた3台とを合わせて、43台のペレットストーブと、同じく全国から寄せられた20トンのペレット燃料を届けることができました。
宮城県内陸地震の体験から、
地域資源でのエネルギー自給をめざす
ヨハナ 東日本大震災の3年前に、大場さんたちのいる栗駒エリアが宮城県内陸地震に遭われたとのことですが、その時は、どんな様子だったんですか?
大場 私達家族が住む栗原市は震源地だった栗駒山の麓にありますから、あっちこっちで地崩れ、道路やインフラが寸断されて大変でした。私たちの家は大丈夫でしたが、バイオマスネットワークの代表である佐々木さんが主宰するくりこま高原自然学校のあたりは、避難指示区域となり、自衛隊のヘリで下山させられることになってしまいました。自然学校のスタッフは2年間、里で仮設暮らしをしたんですよ。
佐々木 仮設住宅は、市町村が土地を提供し、県が建物をつくり、国はその資金を出す、という枠組みで作られることが災害救助法で定められています。東日本大震災では、それでは間に合わず、既存の住宅やアパートを借り上げて「見なし仮設」とすることもできるようになりましたが、当時はまだそのような位置づけがなかったので、近くに空いている雇用促進住宅などがあるにも関わらず、プレハブに住まわさせられ、自然学校のスタッフは理不尽な生活を強いられていましたね。
ヨハナ 東日本大震災の前に身を以てそのような経験をしていたことからこそ、動きが早かったのですね。
大場 内陸地震の時に痛感したのは「大きなインフラに頼らず、身の回りの資源で生きていけるようにならないと」ということです。地元が林業地であることから、これからの山は木を出すだけでなく、石油や電気に頼らないバイオマスでのエネルギー自給も手がけていかなくては、という問題意識をより強くもつようになりました。
海の人と山の人の
顔の見えるつながり
ヨハナ ペレットストーブを持っていく先のアテはあったんですか?
大場 まずは、内陸地震の時に、助けてくれた沿岸部の南三陸の人たちに届けようというのが最初でした。
ヨハナ 親戚とかですか?
大場 そうではないんですけれど、昔から、漁期が終わると海の人たちが山の方の温泉に湯治に来る、という伝統があるんです。家族ごとに「行きつけの温泉」というのがあってね。その温泉地が地すべりでやられたと聞いて、余震もまだあるような時期に、支援物資を持って、沿岸部からかけつけてくれたんです。今こそ、そのご恩返しをする時だ、と思いまして。
ヨハナ 海の人と山の人との顔の見えるつながりがあったんですね!
大場 まずは連絡がとれないでいた志津川の知り合いを探しあてて、無事にめぐりあえると、そこから口コミの情報がいろいろ入ってきました。それをたよりに、お寺や地域の公民館など、自衛隊が入らないような、小さな場所で住民が避難している場所を訪ね歩いては、ストーブを設置していきました。
ヨハナ 寒い時期だったから、喜ばれたでしょう!
木造で仮設住宅を!
大場 どんどん集まる救援物資や燃料のペレット補給にまた一巡するうちに、避難所に住んでいるみんなの大変な環境をなんとかしなければという思いが強くなり「人道支援の次は、木造仮設を」と関心が移行していきました。
ヨハナ 木の家ネットのメーリングリストでも、木造で仮設を作れないか、という話で持ちきりでしたし、その実現のために動いた人たちも結構いました。でも結局、木造仮設ができたのは、前々からそのような準備をしていた岩手県の住田町と、森林資源の活用を考えて板倉構法に積極的に取り組まれていた筑波大学名誉教授の安藤邦廣さんが中心となった福島県いわき市ぐらいでした。
大場 私たちも、震災後すぐに仲間の日影さんから「木造仮設住宅の可能性の検討」というスケッチを受けとっていましたし、物資を運ぶのに自分たちであっちこちの避難所を見ていて「復興への過渡期にみんなが住むには、こんな感じがいいんじゃないかな」というイメージは持っていたのですよ。
ヨハナ それはどんなイメージだったんですか?
大場 学校や体育館などに自治体が開いた避難所のほかに、ほかにも、近くのお寺や集会所などに自主避難してそのまま集団生活しているようなところも、避難所として認められていたんですね。私たちがペレットストーブを届けたのは、そのような自衛隊の行かない、小規模な避難所でした。大きな避難所には、段ボールに入った救援物資がたくさん届いているし、自衛隊や応援するボランティアも来ているんですけれど、小規模な避難所には、物も少ないし応援も来ていないんです。けれども「自分たちのことは自分たちでやる」気風があったんですよ。薪を拾う集めて来る人、火の番する人、調理する人とうまく分担して、少ないものを分け合って食べたり、掃除当番なんかもちゃんとあって、こざっぱりとしていました。
ヨハナ 被災者として支援されるのを待っているというよりは、被災はしたけれど自分たちで暮らしを築いていこう!という感じなんですね。
大場 そうなんですよ。で、日影さんにもらっていた仮設住宅のスケッチにも、そんな感じが描かれていて「ああ、暮らしを立て直して行く時期には、最低限のプライバシーは確保しながら、助け合って共同生活ができるような家があるといいんだな」というイメージができていったんです。
大場 で、さっそく、坂本龍一さんがやっている社団法人モアツリーズからの申し出を受けて、南三陸町に木造仮設20棟を建てる方向で両者の間をつなぐために動き始めました。ところが、南三陸町の町役場自体が、40名の職員の方が津波で亡くなるという状況で、当然の事ながらてんやわんやで「土地は市町村で提供できても、建築は県が担当することなので、県に言ってください」と言われました。で、県にかけあったはみたのですが、残念ながらこの話は実りませんでした。
ヨハナ え、どうして? 地元の木で木造仮設って、地元の山のためにも雇用のためにもいいように思いますが・・・?
大場 宮城県からの返答は「仮設住宅はプレハブ建築協会に頼んでいるから、民間からの個別の提案には応じられない」という返答でした。
ヨハナ 宮城県もいっぱいっぱいだったのでしょうけれど、せっかく民間で実現できる形があったのに、理解が得られなかったのは残念ですね。
大場 というようなやりとりをしているうちに、どんどんプレハブの応急仮設住宅が建設されていって、木造仮設住宅を提案できる時期が過ぎてしまったんですね。
ヨハナ 南三陸での木造仮設を断念してから、「手のひらに太陽の家」プロジェクトへは、どのようにつながっていったのでしょうか?
1.「手のひらに太陽の家」の概要
2. 東日本大震災の発生〜「手のひらに太陽の家」構想の誕生
3. 「手のひらに太陽の家」プロジェクトが実現するまで
4. サスティナライフ森の家の取り組み:自伐林業と復興支援住宅