東日本大震災からちょうど一年たちました。去る2月の11・12日に、宮城県石巻市北上町十三浜で津波で被災した佐々木文彦さんの案内で、現地を訪れました。
2011年10月の木の家ネット第11期総会2日目の朝、佐々木さんの案内によるバスツアーで、北上町内の被災状況を見せていただきました。それから4ヶ月経ち、家などが流された後に残っていた瓦礫なども、さらに片付いていました。河口付近や浜は、建物の土台跡だけが残るガランとした空き地になっていて、浜では一部、漁業のための簡易的な作業施設が立ち始めてもいました。
これから十三浜はどのようにして復興に向かうのでしょうか?
今回の取材では、木の家ネットの会員で北上町十三浜小指地区の佐々木文彦さんご夫妻、相川子育て支援センターに開かれた避難所で所長をつとめられた鈴木学さん、仮設住宅が立ち並ぶ北上町の「にっこりサンパーク」の入り口で産直販売所を開こうとしている白浜地区の佐藤尚美さんのお三方のお話を聞きました。
リアス式海岸に点在する十三浜
石巻市北上町十三浜は、北上川河口付近の北側にひろがる地域で、地形の特徴として、山が海岸ぎりぎりまで迫り、鋸の歯のように複雑に入り組んだリアス式の海岸を持っています。かつては山と山の間の谷だったところがわずかな平地になっていて、小さいながらも水深の深い良港、漁業施設、集落が密集してました。浜と浜との間は、今でこそトンネルで行き来ができるようになったものの、かつては海にせまる山塊のために隣の浜にさえ船で行く方がたやすかったといわれます。
産業としては、わかめをはじめ、岩のり、フノリ、ひじき、昆布などの海草類、アワビ、ホタテ、カキなどの養殖漁業などがさかんです。海草や養殖漁業は季節ごとに共同で行う作業も多く、また「陸の孤島」状態が続いたことから、それぞれの浜ごとに「契約会」と呼ばれる相互扶助組織があり、「結っこ(ゆいっこ)」と呼ばれる共同作業や住民自治が昔からさかんです。
3.11はひじき狩り開口の日だった
私達の住んでいた小指地区には、地元の人がトラハマ、ショロバマ、ナミダと呼ぶ3つの磯があります。2月中旬から磯の「開口」と言って、ノリ、ヒジキ、マツモ、岩のりなど、磯に生える海藻類が収穫できるようになります。木枠にわらを敷いて、とったノリを貼って縁側近くで天日干しするのが、浜の原風景です。海の風の名前も吹いてくる方向によって使い分けたり、浜独特の生活文化が残っています。
私自身は仙台方面で仕事をしており、地元にはいなかったのですが、2011年3月11日は、十三浜じゅうでひじき狩りの開口の日で、多くの人が朝から磯に出ていました。大津波に襲われたのは、漁から戻り、浜にあがってまもなくのこと。地震で地盤が70cmも下がり、漁港は壊滅状態。船も家も漁具もすべて流され、家族を失った人もたくさんいますが、もし地震発生が午前中であったなら被害者はもっと多かったことでしょう。
地震直後は古くからの言い伝えどおりに
山へ、沖合へ
浜に居た人は、訓練どおりにひとまず高台に避難しました。海のすぐそばでも、標高35mほどあります。「地震あったら津波の用心」という石碑もあり、「大地震が来たら、山へ」は、浜の常識です。多くの児童と先生方が亡くなった大川小学校あたりは、浜ではなく北上川沿いで「ここまでは、津波が来たためしはない」ということから、そばに山がありながら、山に逃げることができませんでした。浜から少し内に入るだけでも、これだけ意識の違いがあるのです。
「大きい地震来たら津波が来るから、船は沖合に出せ」という漁師の言い伝えもあります。リアス式海岸で水深が深いので、30分も航行すれば波高が高くならない水深50mの沖合にまで出られるので、船も人も無事だったケースもたくさんありました。遠浅だったら、助からないでしょうね。わかめの重機を上にあげて避難所に向かった人もいます。
それでも、ふるさとに住み続けたい
今、現実に見えている風景が、自分の中にある原風景とまったく様変わりしてしまったので、被災当初は「ふるさとが無くなってしまった」という感覚でした。それでも生まれ育った地を離れたくないんです。なんとか戻したい、元のようにしようと思うんです。もう浜に家は建てられなくても、海を元の通りに戻したい。住む場所は移っても、ふるさとの風景とよべる集落を再建したい。そう思うのです。
私のように仙台に仕事の中心がある人間は、引っ越してしまった方が楽かもしれない。それでも、ここから逃げたくない、この場所のこれからを見たいんです。「ふるさと」という念があるんですね。事務所の本社を仙台からふるさとに戻したのも、ふるさとで子育てしたのも、やはり、ここの空気が好きだからだと思います。通勤のサラリーマンでも、ここに住み、週末には田んぼや漁もする人もいます。ふるさとから離れないでいる人たちは、同じ思いなのではないかと思います。
今でこそ仙台で既存のアパートを被災者用に借り上げてもらっている所に住んでいますが、いずれ集落ごと移転する高台に家を建てて、そちらに住みたいと思っていますし、自分の集落を含めた地域のために自分ができることをしていこうと思います。
避難所の開設
自分たちでなんとかしなければ!
私は相川集落の自治会長ですから、地震直後は、地区じゅうの家を「大丈夫か、大丈夫かー」と声をかけ、避難を呼びかけてまわりました。そして30分後、大津波がやってきて、集落は壊滅状態に。その夜から、相川の集落から山を登りきった高台にある相川子育て支援センターが、相川、小指、大室3つの集落の避難所となりました。
いちばん人数の多い相川の自治会長をつとめていた関係で、私が避難所の責任者になりました。私の前職は郵便局員。相川や北上の局長もしましたので、集落以外の人であっても大概の人は知っていました。定年後3年間は、嘱託として社会福祉協議会にいたので、災害時の対応、ボランティア活動、避難対策のシミュレーションなどについてもひと通りの知識はありました。そんな職歴を経て自治会長となり、一年目で震災に遭ったので、これまでやってきたすべてのことはこのためだったかな、と思うほどです。
子育て支援センターのまわりは「集団地」といって、昭和8年の津波で被災した何戸かで切り開いた家が数十軒か密集しています。老人世帯ばかりですが、ストーブや食べ物、簡易水道の水など、すぐに必要なものの提供をお願いして、大分助かりました。
本来では災害時には役場が陣頭指揮を取るのですが、今回の震災では北上支所そのものが、津波で完全にやられてました。北上支所は3階建てで、その近辺一帯では一番背の高い建物だったため、地震直後には地域住民も多く避難してきており、役場職員の多くもそこにいました。建物全体を呑み込んだ津波のために、そこに居た60人中3人しか助かりませんでした。
役場職員はいない、相川までの道は完全に寸断されている、自衛隊もこっちまではなかなか手がまわらない。今までのように上からの命令系統でものが動いていくことには期待できない状況ですから、自分たちで何とかしなければ!という意識で、がんばりました。もともと漁村で、コミュニティの結束は強いので、すぐに共同作業の体制をつくりました。
道の確保、インフラの整備を共同作業で
情報は全員で共有、生活単位は集落ごとで
震災翌日から手がけたのは、行方不明者を捜しながらの道路確保。軽トラが通れるまで道を塞いでいるものをどかし、流された橋には棒杭を2本渡して、災害対策本部のあるにっこりサンパークまでの道をつくりました。2日めには半日かけて歩いて、辿りつき、援助物資を得ました。寸断されている箇所は徒歩でつなぎながら、使える軽トラで物資をリレーです。ガソリンがなくて大変でした。この物資確保は、若い人たちが率先してやってくれました。
最初は「津波から助かった」という思いでいても、きつい、せまい状況が何日も続くとイライラが募って、衝突も出てきました。そのたびに「今日明日で終わる話でないんだから、お互い協力してやってくれよ」と間に入りました。2、3日はとにかく、しゃべって、しゃべって、小指、大室、相川それぞれの集落から区長、行政委員、会長、元役場職員などを入れた自主防災組織を組み、山積みの問題をひとつひとつ調整しながら、解決していきました。
毎晩ミーティングをして、行方不明者の確認や今日やった作業を報告し、あしたするべき作業が何か、どういう体制でやろうかと話し合いました。この話し合いは必ず全員で話し合いました。代表者から集落ごとに伝達して、というのだと、伝わっていく間に内容が変わってしまうことがあるからです。代表者間でするようになったのは、3ヶ月後ぐらいからです。話のしかたも、郵便局時代のような上から目線では通用しません。同じ高さでしゃべってはじめて、共感できるんですね。
全員の話し合いで、避難所のルールをつくりました。6時起床、6時半ラジオ体操。食事は何時から何時まで。20時消灯、電気が来た後も21時消灯を守っていました。寝る、食べるといった生活スペースは地域別に分けました。たとえ近くの集落であっても、集落ごとに違いますから、お互いに知ってる人どうしで生活できたのはよかったと思います。本部には私を含め、常に二人は常駐して、何かあったらすぐに対応できるようにしていました。
物資も渡し方には苦労しました。とにかく平等ということに気をつかい「もらった」「もらわねー」ということが起きないようにしました。食べるものや日用品は、家族別の人数を聞き、大広間で全員のいる前で分けました。着るものはひとつひとつが違いますから、どの集落から先に取っていくかを、ローテーションでまわすなど、平等を第一に心がけました。
「結」の精神で、インフラを自力で整備
ボランティアの人たちにも助けられた
道つくりや物資確保と並行して、トイレづくり、山から水を引く、瓦礫から木を持ってきて薪にして火を起こすなど、自分たちの手で、避難所のインフラを整備していきました。我々の若かった頃は、ポットントイレで用を足し、人糞をこやしにして畑にやる、薪での風呂や煮炊きするのは、あたりまえのことだったから、昔やっていたのを思い出してやればできるし、苦にならないんです。そういった経験のある世代が、全体を率いて作業していきました。若い人だけでは、そこまで考えがまわらなかったかもしれない。
大事なのは自立です。何かに頼っていれば、ないことが不満になりますが、自分たちの手でつくるしかないと覚悟を決めてしまえば、あとはあるもので工夫して、ひとつひとつやっていける。昔から「契約講」というコミュニティーがしっかりあって、陸の孤島のようなところでなんでも共同作業でまかなってきた下地があるからだと思います。労働の借りは労働で返す。全体のことをみんなでやる。自分たちのことは自分たちでやる。そうした「結(ゆい)」の精神が、震災後にうんと発揮されたように思います。現場が分からない上からの指示に従うより、自分たちで決めて動いていけたのがやりやすかった面もあります。
200何人での共同生活だと、トイレが大問題でした。最初はそれこそ「そのへんで」個別に用を足していましたから、臭くてかなわない。「水ひくべ」「トイレ、つくるべ」という動きが自然と出てきました。まずは外にテント2つ分穴を掘って、囲いをして、そこで用を足すようにしました。それだけでも大分、臭いもましになりました。水は、戦後に山の上に開田した田んぼに沢水を引いていた水路跡を探し当て、資材も、昔のままのを流用しながら、引っ張って来ました。バケツで水を流せば屋内の水洗トイレも使えるようになったので、年寄り、女性、夜に限定して使ってもいいことにしました。
状況が落ち着いてきて、煮炊きができるようになってからは、集落ごとの4班体制の当番制で食事の用意をしました。食事当番にあたった集落では、その一日の食事の面倒を見ます。まず男たちが起きてきて、薪で湯をわかします。女たちは炊事、年寄りは掃除など、それぞれの年齢や体力、できることに応じてはたらいていました。さまざまな年齢層がまじってるからこそ、自然と役割が決まり、まわっていたようです。
NPO水守の郷代表の海藤節生さんたちや東海大学の学生をはじめ、ボランティアの人もたくさん来て作業を手伝ってくれました。佐々木さんとは十年来の付き合いの東北大大学院教授の土屋範芳さんからソーラーパネルを寄付していただき、電気がつき、テレビも見られるようになりました。行政よりも、ボランティアの支援の方が早かったし、いっしょに作業できましたね。
ボランティアの人たちとの出会いは、今まで自分の生きてきた保険とか貯金とか、お金勘定が中心の世界とはまったく違う世界を開いてくれました。ここの住民でないのに、初めて会う人たちなのに、私達の避難所のためにともに作業してくてる、その気持ちが通い合うつながりがうれしかったです。ボランティアのみなさんも、この避難所はいい、あったかいと言ってくれて、親しくなりました。今でも、買い物代行、漁協の手伝い、病院への引率など、手伝ってくれているボランティアもいます。本当にありがたかったです。
仮設住宅の完成と
避難所が解散していく
6ー7月ごろになると、仮設住宅ができてきました。まずは旧石巻市内に、北上町内ではにっこりサンパークと相川運動公園にできました。「どこに何戸空きあり」という通知がまわってくるのに、家族単位で応募します。2年間はそこに住めることになります。自分で住むところを見つけて移った人、町場の借り上げアパートに行く人、仮設住宅に応募する人などそれぞれの家族単位で次の展開を決めて避難所を去っていき、7月15日に解散となりました。もちろん私の家族は最後まで避難所暮らし、私はずっと本部に寝泊まりでした。