仮設を出て、どこに住むのか?
家族ごとに選択はいろいろ
現在、仮設住宅に多くの世帯が住んでいます。仮設に住める2年が経過した後、どこに住むか。ひとつひとつの家族が、決断をせまられています。
年寄りだけの世帯の場合、自分たちはここに住み続けたいと思っても、将来子ども世帯が帰ってくるあてがなけば、新しく家を建てなおしても、自分たちの代限りのことになってしまいます。老い先短い中で、経済的なリスクを背負って新しく家を建てられるかというと、なかなかむずかしい問題です。持ち家をあきらめて、賃貸の災害復興団地に入る選択をする人もいれば、いずれ帰ってくるかもしれない息子のために家を建てたいという人もいます。
浜は土地、海との結びつきがとても強いところです。本来は、海が見えないところで暮らすことはありえない、という感覚があります。しかし、今回の地震後に危険水位域という網掛けをされた土地には、もう家は建てることができません。家が流された跡にプレハブで作業場や物置を建てるぐらいしかできません。今は勤めの関係で町に住んでいても「終の住処はふるさとに」という思いがあり、地元に戻れる土地は確保しておきたいという人もいます。
地元に残るとして、どこに住むのか。住める土地は、高台にしかありません。しかも、多くの高台には平場がなく、現状は山林であるところを造成するほかありません。
防災集団移転促進事業にむけての第一歩
私は自分自身が津波で家を流された被災者ですが、建築の専門という立場を活かして、地元役場の地域振興課の今野さんと協力して、各集落の高台移転に向けてのお手伝いをしています。役場が声かけする形で、集落ごとの説明会や話し合いを昨年の秋ごろから始めています。
国には、国土交通省の「防災集団移転促進事業」という制度があります。それを利用すれば、国が地権者から買い上げる移転地を造成し、電気や水道などインフラを含めて住めるような状態にするまでの費用の4分の3は国が、残りの4分の1を石巻市が負担することになります。「防災集団移転促進事業」で各世帯が取得できる土地の広さは100坪までと決まっています。土地取得代金を含めた補助金として200万円が出ますが、そこに建てる家は自己資金で建てる、自力再建となります。
まずは、こうした制度の存在を、集落の契約会長や区長に知らせ、各集落ごとに移転候補地を出してもらい、そこに何haの土地がとれて、何世帯の人が住めるかを検討します。集落によっては、もとの集落全体が入るだけの広さのある高台がないため、いくつかに分かれなければならないケースもあります。
集落ごとのワークショップで
住民の意思を聴く
同時に、ひとつひとつの世帯がこれからどうしたいか、希望を、集落ごとにとりまとめてもらいます。高台の地権者がなかなか合意しないケースもあります。一戸一戸の希望を聞き出すのも、さまざまな思惑やしがらみがあったり、また現地を離れて生活していることもあり、最終的にそこに住む人が何戸になるかを確定するに至るまでは大変なことです。移転敷地の模型をつくって、みんなが納得できる上手な住み分けを考えないとなりません。中越地震で被災した新潟県 旧山古志村では合意形成までに3年半かかった地域もあると聞いています。
役場と地元のほかに、北海道大学の宮内泰介先生にご協力いただきながら、北上総合支所の関わる各浜ごとにワークショップ形式での話し合いを重ねています。どういうまちづくりをしたらいいのか? どういう暮らしをしたいのか? 今後も元のコミュニティを絶やさないためにはどうしたらいいのか?高台移転に向けての個々の世帯の調整や合意形成だけでなく、移転したその先でどのように暮らしたいのかという構想にまでつなげられたらと思っています。
通常は契約講という、集落ごとの世帯主の集まる自治組織でワークショップをするのですが、それとは別にお母さんがただけが集まるワークショップもやっています。「男たちだけにまかせてられない」と、かえって意見がたくさんでるようです。ひとりひとりが思うことを話すので、あちこち飛ぶのですが、出た意見を付箋紙に書き留め、分類整理して模造紙に貼り出したりして、ゆっくりまとめていきます。
小学校の統合により
高台移転後集落が限界集落化するのが心配
相川地区でも高台移転の合意形成を進めていますが、震災後、他所へ移ってしまっていて返事が来ない世帯、もう帰ってこないという世帯、まだ分からなかったりあやふやだったりする世帯があり、まだまとまりきってはいません。まとまって移れるだけの場所はないので、希望によって3箇所の候補地に分かれるようになるのではないかと思います。2月中には、決めることになっています。
土地は国や県に造成してもらえても、家は自力再建ということなので、年寄りだけで若者がいない世帯は賃貸の災害公営住宅に移る人も多いのではないかなと思います。もうひとつ懸念しているのは、学校の統合です。現在、被災して校舎の使えない相川、吉浜の小学校は、橋浦小の校舎の中に間借りして、校長先生も先生も学級も別々の3校が同居しています。それを平成25年度からは、統合してしまうという話になっています。
「子どもたちのためにも大勢で学べるのはいいことなのでは?」という声も聞かれますが、地域から学校がなくなることが決まってしまうと、子どものいる世帯はここを離れていくのはないかと危惧しています。実際に、仮設住宅ができた時点で、学校により近いにっこりサンパークに移っていったのは、小中学生のいる世帯です。
そのように若い人のいる世帯が地域からいなくなっていくと、じっつぁん、ばっつぁんばかりの限界集落になってしまうおそれがあります。やはり地域は、老人世帯もあり、若い人がいる世帯もあってでないと、助けあっていけないし、集落がなりたたないと思います。中学より上はともかく、小学校は地域にあってほしい。できれば、その小学校が図書館や公民館も併設した地域の中心となる複合施設であってほしい。小学校があるから人口が増えるとまではいかなくても、限界集落化していくスピードは遅らせられるのではないかと思います。
この間、学校統合の説明会があったので行ってきたのですが、地域の人はほとんど来ていませんでした。説明会の会場がここから40分以上もかかる河北総合支所で開催されていたので、行きにくいということもあったのでしょう。なぜ、このへんの年寄りが通いつけている北上地域の支所でしてくれなかったのかと、やはり「統合ありき」の説明会だったのではないかと、疑問です。住民が実際に少ししか来ない説明会でも、開催すれば「住民の理解を得られた」ということで先に進むということなのでしょう。
さまざまな世代が混じりあってバランスよく住んでいるというのが、集落の望むべきあり方だと思います。高台移転を前に、学校統合の話がもちあがっているために、若い世代の流出が心配です。
高台移転用地の買い上げと
景観に沿った造成の計画
JIA日本建築家協会の仲間の協力を得ながら、高台移転地での造成の計画、レイアウト、住戸の場所決めなどのお手伝いもしています。集落としての希望がまとまれば、国が用地を買い上げることについて地権者の了解を得て、用地取得の交渉に入ります。
造成業者にとっては面倒かもしれませんが、土地の造成にあたっては、町場の開発のようにブルドーザーでごっそり平らにおしなべてしまうのではなく、地形の凹凸にさからわない形で、何戸かずつの敷地がいくつか点在するような形がいいのではないかと思います。三陸国定公園内なので、本来は景観上の規制がかかって家を建てられない場所です。そこここに木々を残す、各敷地から海が見えるようにするなど、風景に合った形での造成をしたいところです。
全体のレイアウトの中で誰がどこに住むかという区画割りは、集落ごとにまかせます。「誰の隣はいやだ」「あそことは隣同士に」など、集落内の人間関係や昔からのしがらみもあって、なかなか大変です。同じ集落の中でも、お互いに均等に付き合っているわけではないですからね。
集団移転した先で各世帯が使えるのは100坪までです。浜で住んでいた頃よりは、狭い敷地となります。市の職員やうちのように勤めに出る世帯なら大丈夫ですが、漁業を生業としている人にとっては100坪では漁業用の設備、冷凍庫、倉庫、作業スペースなどは足らないですね。浜の元住んでいた土地に簡単な漁業施設を建て始めているところもあります。職住分離は早朝の作業などにはきついですが、ほかにしようがありません。
私のいる小指地区では、家族を津波で亡くしたなどの理由で、ここにはもう戻らないということを決めた世帯がいくつかあり、その他にも、どうしても家が元あった場所に住むということで、なかなか同意が得られない世帯などもありましたが、どうにか14軒で集団移転をしようという意思が1月末にようやくまとまったところです。集落が小さい割には、残る割合が高い方だと思います。残らない世帯も「春と秋の祭りには必ず帰ってきたいので、契約講には残しておいてくれ」と言うほど、コミュニティが強いところだからでしょう。移転候補地は、小指集落から見てトンネルひとつ向こうの、大指寄りの高台です。トンネルの手前を海に迫る山をのぼっていったところです。
自力再建で高台に建てる家が
景観に合った木の家になっていってほしい
高台移転地に建てる家は、自力再建になります。補助金が一戸200万までは出ますが、たとえば土地代に100万払うと残りはわずか。ローンを組むにしても、相当な負担にはなります。自力再建ですから、ハウスメーカーに頼むのも、地元の工務店に頼むのも、自由です。バラバラな家が建ってもおかしくありません。けれど、できれば、北上町十三浜ならではの景観ができていってほしいなと思います。
中越地震で被災した新潟の旧山古志村には、風景に溶け込むようなデザインの「中山間型復興住宅」が点在しています。モデルプランおよび施工方法は、地元住民と工務店にヒアリングを重ね、アルセッドの三井所先生たちが練り上げたものです。公営住宅と、自己資金プラス補助金で建てる自立再建住宅のモデルプランとを用意したことで、住民が好みの設計で再建することが可能な戸建て住宅にも、モデルプランの要素を取り入れてもらうようにしたそうです。
高台移転のワークショップを通じて「十三浜にはこういう風景がふさわしいよね」という意見が集約されてくれば、それを体現するような景観のコンセプトをつくりあげ、絵や模型で各集落にも提示していこうと思います。県産材や雄勝の天然スレートなど、地域の素材を生かし、地域で経済が循環していくようなやりかたで復興していけることを願っています。そうした家づくりの受け皿として、地域の工務店や製材所などをとりまとめる形で、石巻の広域で「つくっぺ、おらほの家」という協議会をつくりました。
「おれはハウスメーカーの方がいい」という人もいる中で、景観についての理解を得るには時間もいるでしょうし、そもそも強要できることではありません。こちらでイメージを作って押し付けるのではなく、地域のみなさんのニーズを聴きだして、時間をかけて実現できればと思っています。冠葬葬祭、春秋のまつり、漁業における共同作業など、相互扶助的な地域コミュニティーがもともとしっかりとある土地柄ですが、高台でのまちづくり構想を通じて住民意識がさらに高まれば理想的です