2011年3/11に起きた東北関東大震災から2ヶ月あまりが経ちました。今回の特集では「この震災+原発事故の後、考えたこと」として木の家ネットのMLでよびかけたものを、テーマ別に分けてお届けします。木の家ネット全体としての総意ではなく、あくまでも個別の意見を集めたものであることを承知の上でお読みください。
一部、震災直後からの会員ブログの記事からも引用しています。投稿の日付により、今から読むとそれが書かれた当時と情況が違うものもありますが、そのままにしてあります。全文を掲載するととても長いので、部分で抜き出していますので、ご了承ください。(2011年5月27日)
地震・津波・被災地 篇
地震直後
想像を越える津波の映像に、ショックが大きすぎて呆然とするばかり。海があんなにも暴れることがあるものか。
阪神淡路大震災以来、伝統的な木造建物の耐震性をどうすればよいかと取り組んで来たが、ここまでの津波となると、そうした問題設定をはるかに越えている。
津波の後に残った、コンクリートや鉄骨の瓦礫といったスクラップの山。人間がつくり出したものが、巨大な自然の力の前に崩れた後に残してしまうものについて考えざるをえない。
石巻市北上町に住む、木の家ネット会員である佐々木文彦さんは、海のすぐそばに立つ自宅兼事務所を津波ですべて失われ、集落のみなさんとの避難所での世話役として日々をついないでいく生活を余儀なくされています。被災されて一ヶ月後のメールです。
地区の集落単位で、男達は道路を塞いでる瓦礫の民家の撤去など、自衛隊や行政が手が回らない部分を共同作業でしてきました。3キロ先の山中から沢水をひき、瓦礫の中からマキとなる木材を集めて湯を沸かし、女性達は当番制で炊事を担当。限られた支援の食料や衣類を分け合い、自治による共同生活が営まれています。ようやく支援物資も他の避難所にまわせるくらいに備蓄も足りるようになりました。(4/19時点)
■南極隊仲間 発電パネル積み急行
(朝日新聞 2001/4/13 36面)
■南極隊仲間 発電パネル積み急行
(朝日新聞 2001/4/13 36面)
木の家ネットでも「東北応援隊」として、支援物資を集めて岩手県陸前高田市の菅野照夫さんに届けるなどの動きがありました。内陸で被災の度合いの小さかった宮城圏栗原市鳴子に住む遊佐茂樹さん(古遊工房 遊佐建築)も、震災の翌日から被災地通いをされました。
地震発生から古遊工房単独で物資の支援活動をしていました。地元の方々と職人の家族にお願いし、3日間にわたりおにぎり2000個、飲用水1.5t、タオル500枚他、食料多数をもって被災地を回ってきました。急なお願いにもかかわらず、協力いただけて、本当にありがたいことです。石巻地区・渡波地区・他物資が行き届かない地区を優先的にお届けしてきました。道路を確保するため重機でのガレキ撤去作業が進められていたのですが、パワーショベルで一振りすると遺体が出てきて、路肩に並べられていました。その風景を見慣れてしまったのでしょうか、脇をなにくわぬ顔で歩きすぎていく様子が目に焼きついています。まさに戦場でした。たくさんの被災者とお話しましたが、みなさんかなり落ち込んではいるものの、少しずつではありますが一歩、一歩前に進みかけているようにも見受けられました。(3/24時点)
なにかできることはないだろうか? 多くの人がそう思い、動きました。ほか、被災地を訪れた会員からのコメントです。
被災地を訪れたときは、まだ真冬の寒さであったが今は4月です。写真を見て、みんなと自分らとなにが圧倒的に違うかわかりますか?お鼻の感覚ですよ。そう臭覚ですよ。いまだ発見されぬ遺体。瓦礫の山に磯、潮のにおい。いまはあの時よりはるかに暖かいので、そのにおいもかなり強いかと思われます。
被災地を訪ねて、人工的なものの脆弱さを思い知らされました。がれきの山が延々と続く海岸に近い道路。瓦礫の下や海底に眠る多くの人命や他の生物の最後の叫びを心に聞き、心が深く痛みました。コンクリートのガラ、鉄骨、いろんな人工物の瓦礫は、簡単には、自然のなかに溶け込みません。これが昔の津波被害のときの家屋であれば、すべて自然素材であったであろうから、片づけることをしなくても自然に溶け込んで土にかえったであろうに。建築に携わるものとして、より深く思慮する機会を与えられました。
震災から1か月後、南三陸町からほんの数キロ入った登米市では、ふつうに道の駅が営業しており、電気も水道も復旧し、野菜も売っており、お土産もあり、レストランも営業していました。被災地とこんなに近いのにと、不思議な感覚になってしまいました。
レストランで相席になった地元のおじいちゃんが「どこから来たのかね」と尋ねられたのがきっかけで話をするうちに「俺の作った米が、この売店で売ってるから、30kgを3袋、いっしょに持っていってくれ」と言われ、見ず知らずの私に託そうとされました。東北の人の気持ちがうれしかったですし、何かしなければとみんなが思っているのです。
計画停電、流通の混乱
関東圏では計画停電が実行されたり、物資不足になったり、日常生活に大きな影響がでました。インフラへの依存度の大きさを感じたり、ふだん気づかなかったことに気づいたり・・・
地震・津波直後に自分の住む町に訪れた、計画停電、物資不足、ガソリンスタンドやスーパーマーケットに並ぶ長蛇の列・・・。電気が止まると、高層ビルのエレベーター、オール電化住宅、24時間換気、エアコン、情報、道路の信号みんな停まる。当たり前と言えば当たり前だけれどショック。社会の仕組みの脆さ、まちで暮らす自分の生きる力の弱さを肌で感じました。
夕暮れ時の停電。まちの中を自転車で走り回って出かける用事を済ませました。電気がなければかくも闇は深く、かくも月は明るく感じるのか。夜は、家族がろうそくと懐中電灯の周りに集まって、明りが点く時まで、これまでにないほど密度の濃い会話を楽しむことができましたた。生活や仕事の進み具合に影響がないといえばウソになりますが、闇が深いからこそ見えてくるものに気づかせてくれる、大事な時間でした。なるべくエネルギーを使わなくて済む社会に向けて、たとえば満月の夜など、たまに実施してもいいかもしれません。
寒い地域なので、暖房や煮炊き、すべてを電気でまかなっているオール電化住宅に住んでいる人は大変だったようだ。薪ストーブで暖をとれること、プロパンガスで炊事できることのありがたみを感じた。
システムキッチン(とくにレンジフード)、合板(コンパネ含む)、サッシなどの生産物流拠点が東北沿岸部にあったため、手に入らない状況が続いています。3月末納品予定だったものが、担当者によると5月以降になるかもしれない、とのこと。しばらく建設業界も混乱の事態が続きそうです。
計画停電のため、電動工具を使わず手道具だけで刻む音が工場に響く日があった。また、建材の入荷遅れでの建築の遅れが報じられているが、無垢材と自然素材だけでの家づくりだと、入荷がストップして困ることはほとんどない。
被災地からは遠い岡山県内でも震災直後には多くの建築現場では物資不足で工事がストップしたと言うが、地元の材木と竹小舞土壁で作っている私の現場は困らなかった。それを聞いた同業者が「アンタの現場は昔流だし、そこいら辺の物ばっかりで作っているからな」と苦笑いした。
震災後の心理
さまざまなコメントに、多様な心理が垣間見えます。
自然は素晴らしい。でもそれだけじゃない。美しい紺碧の空や海や爽やかなそよ風も自然なら、恐ろしい津波や地震も自然だ。自然は人間の「想定」などお構いなしだ。人間が勝手に決める「設計基準」を自然は“鑑みて”などくれない。人は自然に対して余りにも無力であることを思い知らされた気がした。
震災後、家づくり、建築の仕事を続けることが急に不安になりました。地元の木を使って山や森を元気に、なんて言っても、大きな災害や原発事故があっては元も子もありません。一体何のために、何をすればいいのか、迷いが生じました。数日後、現場に行くと、大工さんたちは以前と変わらず淡々と仕事をしています。計画停電で少し不便そうでしたが、電動工具を使う時間帯を調整すればいいだけの話。木と土で出来た空間に身を置き、静かに響く家づくりの「音」を聞いていたら、そうか、今までも古の人たちは、自然を受け入れながら、こうやってゆっくり前に進んできたんだろうなあ、と感じたのです。
津波で家を、家族を流されてしまった人。放射能汚染で住んでいたところに住めなくなった人。大変な状態にある人がたくさんいます。家もある、家族も無事、土も水もある。あたりまえの幸せの、ありがたさ。幸せなはずなのに・・・気が浮かない、重くたれこめたモヤがかかったような状態が続いています。
震災直後から、東北地方で元気に復興援助活動をしている人のブログを見て、応援しています。炊き出し、泥出し、仮設風呂つくりと大活躍。仲間を集め、義援金を募り、仕事そっちのけで大活躍。出来ることを自ら考えて動き出す、そんな活動を見て、勇気づけられます。私達が求めているのは省エネのエアコン暖房やLED電球の明るさではなく、他人を思いやる心のぬくもりと屈託のない明るい笑顔ですよね。
3月中、中止、自粛のイベントがたくさんありました。中止になったイベントをショッピングセンターでのチャリティパフォーマンスにあてたミュージシャンがいました。集まっている人みんなが笑顔だったのが印象的でした。世の中不安だらけ、また被災地のことを思えば心が痛みますが、どこかで笑顔が始まらなければ。記憶を消し去る、ということではなく、できる範囲での支援を働きかける一方、いつか彼の地に笑顔が届くように、私たちもそろそろ元気に、笑顔で。
途方もない復興への道のり、予断を許さぬ原発の状況。不安ばかりが募る時ですが、それでも春が来て、庭先の木々の芽は膨らみ、花が咲きます。これほどまでに花に心揺さぶられ、花に励まされた春が今まであったでしょうか。この先もたくさんの試練が待ち構えているかもしれませんが、不安よりも大きい、生きる力を与えてくれるきっかけに目を向けたいです。
しかし、多くの人が今回のことを「災厄」としてだけでなく、ひとつの「転機」ととらえています。
大地が大きく揺さぶられたことより、たくさんのことを失われてしまったけれど、これを契機に、近代以降積み上げてきた、大きすぎて今まで見えなかったものが見えてきて、人々の暮らしに対する考え方が大きく転換するという予感がします。
地に足、手に職、風と土。有史以来つい最近まで、人間が長年営んできた暮らし、長年培ってきた知恵や技。ともすると、急速に消し去りかけていたものを今、理性と現代文明の中で見直す時ではないでしょうか。めざすべき全体像を思い描きつつ、力を合わせて一つ一つ、復興に向けて積み上げていきたい。
今回の震災をきっかけに、生き方そのものを見直し、普段の物質や人間関係にあふれ、依存してきた生活を整理し、最低限の身の周りのもので、生活をすることを目指すように、モノを整理することの実行に入りました。モノに囚われ、不自由になっている生活を、必要最小限にし身軽にするべきと強く感じました。被災地に物質支援するだけでなく、自分自身の身辺を整理し、止観をする時間を持つことが大切と気づかされました。
今回の地震に対して私達はなにができるのか。寄付をしたり、ボランティア活動に参加したりすることも大事ですが、根本的な問題をもう一度考えることが必要です。建築的に言えば、阪神大震災で私達が考えるよりも大きな被害が出ましたが、それに対していろいろな基準の改正などが行われました。でも、今回の地震では、それをさらに超えるケースもあると言うことを知らされました。マグニチュード8.8に対応した建築物をつくること。津波にも流されないような建物をつくることなど考えられません。そんなことより、そういったことが起こっても対応できる社会システムを考えることですね。大きな地震に完璧に対応することは難しいかもしれませんが、自分達の作る社会構造を考えることは可能でしょう。とりあえず原子力発電所なしでも生きていける社会をつくるためにはどうしたら良いのか考えて見るのが良いと思います。
遠くにありすぎて感じられなかったもの、大きすぎて見えなかったものを感じる体験から、地に足付いた生活、そしてその器としての住まいづくりへの想いを強くしました。同じように想っていた人は多いようで、地に足の付いた生活を志向する動きが加速化する気配を感じます。哲学者 内山節さんの著書『「里」という思想』を読み返しています。「ローカルで行こう」と想いをあらたに。