福島県で瓦礫の撤去作業を進める自衛隊
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木の家ネット会員の声:地震・津波・原発災害で考えた事


2 原発

今回の震災は、東京電力の福島原発での事故、そして広範囲にわたる放射能汚染をひきおこしました。福島県には、住めない地域ができてしまいました。被害の実態はいまだに把握されきれておらず、あるいは、公表されておらず、長いタイムスパンの中で、特に放射能の影響を受けやすい成長期の子どもたちの被爆が懸念されます。原発や原発に頼らないエネルギー供給、家づくりをめぐる投稿の数がもっとも多くて、しかも一つひとつの分量が多いのですが、なるべくそのまま掲載します。

原発事故が起きて

建屋が爆風で飛び散った映像を見たときの衝撃は忘れられません。こんなことが起きていいのか、、。まさか自分の生きている間にこんなことが起こるとは思いませんでした。その後の政府や東電の対応にやきもきしながら、連日の報道から目が離せませんでした。
地震と津波だけだったらどんなに気が楽だったことでしょう。復興だ!と立ち上がれます。でも・・・・。毎朝一番にするのはTVをつけること。寝ている間に、悪い方向に事態が進展しているのでは?と、恐る恐るTVを見ます。余震の緊急警報が画面に流れると、震源地が福島でないことを祈っています。そんな中でも3回の食事を暖かい部屋で頂ける有難さ。一方で四十九日を過ぎた今(5/3の投稿でした)でも、ライフラインが確保できずに不自由な中で奮闘している方達がいて、さらに放射能汚染の危険を知りながらも原発の最前線で作業に当たられている方達を思うと・・・。
壊滅状態の女川市街にて撮影。女川の南部では、高台にあり丈夫な建物ということで、女川原発の中に避難した付近の住人が、一時は300人ほどいたという。(撮影日:4/22)
救援から復興へ。その長い道のりですら気が遠くなるのに、放射能のために、建物が壊れていなくても住めなくなる、土はあっても耕作できない、遺体がそこにあっても運び出せない。そんな大きなリスクの上に日本の電力供給はあったのかと、思い知らされます。土壌、海の生態系、その被害を受けているのは、人間だけではない。そして、電気を使うのは人間だけ。それも、原発から遠く離れた大都市の人びとなのかもしれない。原発の利点や安全性を並べたとしても、どんなにそれが地域振興になるのだとしてもそれとは引き換えられないほどのリスク。大きすぎないですか。
地震と津波は天災だけれど、原発からの放射能汚染、これは人災。

原発に対するスタンス

もともと原発に反対だった人の意見です。

原発が飛んだらこうなるよ!とさまざまなイベントや映画などで警告されてきたことが、本当にそうなった。そういう場でしかなかなか共有されなかったことが、今や常識となった。それでも、なかなかすぐに「原発をやめよう」とならないのは、なぜ?
脱原発という言葉が嫌いです。脱原発という言葉からは「今までのことはしょうがない」と、責任の所在をうやむやにしてしまうニュアンスがあります。私はあくまで反原発です。被ばく労働者の犠牲なくして成り立たない電力など、どうやっても正当化されるものではありません。
滋賀の北には福井原発があります。福井で事故を起こせば、滋賀は県境まで13㎞、私のところは直線で65㎞です。いつ汚染され命の危機にさらされるかわかりません。関西電力の原発は60%の依存度があるとか聞きます。「そんなにあるの?」家の周りにも道路沿いには、街灯が30m間隔についています。3つに2つは無くてもいい感じ。「なぜ?」電気は必要ですが、使わない工夫が必要。今のままでは、そらあ、電気がいるわな!この事故で、放射能の事について国民は、多くの事を学んだに違いありません。本当に必要な事・大切な事を区別をし、安心安全な環境を整えていかなくては!
以前から原発には反対でした。でも、今も以前も、ただ廻ってくる署名をしているだけの行動です。施主さんに深夜電力を勧めなかったくらいが救いでしょうか? 今,私にできることは、なにかもわからないけれど、子ども達に自然への畏敬と、それに反するものを残さないことをしたいと思います。精力的な活動はできないけれど、持続できるなにかがあればと思っています。はちどりは水を含んで、山火事を消そうとするとか、そのはちどりをシンボルにしているグループで、子ども達に省エネの話をするお手伝いしています。ほんとに小さな活動。いつか、原発がなくて暮らせる時がくるでしょうか?

これまで積極的に原発に反対していなかった人で、今回で考えが変わったという人も結構います。ここに紹介します。

火事の危険があるから火を使うのを止めようなんて言わないように、放射能事故の危険性があるからと原発を急いで止めなくてもと、今迄は思っていました。また、原発はスイッチひとつで、いつでも中止、廃止できるものと受け止めていました。「そうではない」ことを、福島の事故で目の当たりにしました。
地震や津波は自然災害で制御はできないが、原発事故は人間の技術がもたらした災害だ。これまで私は原発推進派ではないが積極的な反対派でもなかった。それは結果として、国の「電気の安定供給に原発は不可欠」という筋書きを黙認したことになるのだと反省している。
日頃から、廃棄物が処理できず、リスクのある「原子力」を利用することに納得できない、といいながらも関心を持たずにいた自分に反省。反原発というと、どうしてもイデオロギー色が濃くなる傾向があり、やや敬遠していた感もあります。しかし、今やそれは政治でも思想でもなく、私たちの普通の生活に関わることであるといえます。福島の人たちを苦しめ、そして豊かな土地を無惨にも不毛なものした、放射性物質。唯一の被爆国である私たちが、自らその過ちを繰り返すことになったことが悔しくてたまりません。その後、今までこれらの話題に触れなかった友人間で、いまや連日のように情報交換をしています。もうだまっていはいられない、一部の人に任せてはいられない、そう感じています。政治や社会構造の問題点も、原発事故を通して浮き彫りになったようです。
原発の人災には、嘆かわしいとしかいいようもなく、仕事としてオール電化を容認してきた場面も私自身あったので、原子力推進の責任は私にもあると思いました。学生時代に、ある大学の教授と酒場で話をしたときに、「原発を維持するには、もう一個原発と同じエネルギーがいるから収支0だ」と言っていたことを思い出しました。今の事態は、それどころではない、大きなマイナスです。放射性廃棄物を生み続け子孫にツケを送るやり方は、借金を続けるこの国の間違った運営をしている政治家とと同じ。もうこれからはしてはいけない。
自然の力と言うものは私達がマニュアルで対応しようとしてもどうしようもないこともあります。そういったことが起こると言う前提で原子力発電が考えられているかというとそうは思えない。人間がうまく制御できない技術を使ってまで電力を使わなくてはならないのかそこをもう一度考え直す必要があります。

これからの日本は?

放射能汚染されている福島に住む人に対して、国は誠意ある姿勢をとっているでしょうか?文部科学省は、子どもたちをふくめ、年間に浴びる放射線量の限界値を、これまでの20倍にまで引きあげてしまいました。そのために、子どもたちが口にする学校給食でも、放射線の値の高い野菜が使われています。めちゃくちゃです。これから日本は、どこに進んでいくのでしょうか?
原子力安全委員会委員長が無邪気に発言しているように、一部の利権者が儲かるため原発を作りたいから電気をドンドン使うように仕向けでいる。政府は「原発がなくなれば電気が供給できませんよ」と脅す前に「国民全員の幸せな暮らしを考えましょう」と提言して欲しい。例え知らない誰かであっても、それが近隣の住民であっても、事故処理の作業者であっても、事故発生時には誰かの被爆が前提の電気供給では国民の幸せとは言えない。
政策の判断の基準が「いのちを大切にすること」であってほしい。いのちを基準に考えれば「より安全性を高めて続行」ということはありえない。いつだって「想定外」はありうるのだから。人が制御できないほどのリスクがある巨大な原子力には頼らないという道を選んでほしい。経済効率、利権などのしがらみで選んでほしくない。「これまでが間違ってました、これからはこうしましょう」でいいのに。政府にも大転換をしてほしい。そして、国の予算を自然エネルギー利用実現のために使うなど、別の方向に向けて日本人の知恵を結集していってほしい。
単に昔に帰ろうなどとノスタルジックな事は思わない。でも、この震災を通して、本当の幸せとは何だろう?と考えた。医療機関や工場への電気の安定供給は必要だとしても、夏に汗をかかずにスーツを着て仕事をしたり、冬に半袖でアイスクリームを美味しく食べる暮らしが本当に健康で幸せだろうか?私は電気を多く消費しなければ幸せになれないとは思わない。「CO2を出さないクリーンエネルギー」といわれる原発をは始末できない廃棄物を出している。CO2は樹木や植物の餌になるが、原発廃棄物の安全な処理方法はない上に、今回のように一度事故を起こしたら取返しがつかない。犠牲や被害が前提では、幸せは成り立たない。
菅総理の英断(独断?)で浜岡原発が停止しました。他の原発はどうなるかわかりませんが、国民の将来にとっては重要な判断だと言えると思います。危険なものは経済性を優先せずに停止する。あたりまえの話なのですがこれが今までできていない。他の総理などでは絶対に不可能だったのではないでしょうか。
中国製のガイガーカウンター

世間一般の反応は、どうなのでしょうか? 情報ソースによっても、大分ちがうようです。日本は変わっていけるのでしょうか? 国の方向性は?そして、私たちひとりひとりの選択は?

朝日新聞のアンケートでは、未だに原発推進派が51%、増設反対が25%ということです。NHKや大手メディアからだけの情報で判断しているからなのでしょうか? 今は新聞やTV以外にも、インターネットのブログやYouTubeなどから、たくさんの情報を手に入れることができます。脱原発に向かうためには、こうした情報が広がっていくことが必要でしょう。

追記:その後、朝日新聞の世論調査でも原発反対と回答する人が多数派になりました。5/26の朝日新聞の記事「原発反対、日独中韓で増 日本は初めて多数に 世論調査」リンク先が見つからない場合はこちらをご覧ください。
広島での街頭投票では「原発なしで暮らしたい?」という質問にYESが505/605(83%)、NOは49/605(8%) ロイターオンライン調査では「政府のエネルギー基本計画では2030年までに14基以上の原発増設を目指している。今回の原発事故を受けてあなたが望む政策は?」という調査結果は現在のところ「計画通り原発を増設」に24,315票(8%)、「計画を見直し、原発を減らす」に34,495票(11%)、原発を全廃に241,416 票(81%)twitter連動プレ国民投票では「日本の原発は今後どちらの方向に舵を切るべきでしょういか?」という問いに対して現在のところ「維持・推進」が585人(4%)、「縮小・全廃」は12505人(96%)
この震災を機に、この日本という国のありようが少しでも変わるのではないかという淡い期待は、想像していたとおりに打ち砕かれつつある。事態はほとんど何も変わっていないのにもかかわらず、政府とそれにぶら下がるマスコミは平穏な日常を演出することに忙しい。世間もこれまでの日常が木っ端みじんに打ち砕かれることを恐れてか、能天気な大本営発表を反芻することなく鵜呑みにしている。そのことは「停電は困るから原発の存在はしょうがない」という他人事の意見によくあらわれている。もし今後東京に放射能のホットスポットがあらわれるまで原発の状況が悪化すれば、人々の意識は変わるのだろうか。福島の被ばくは許されるが東京の被ばくは許されないと公言するのだろうか。岡田幹事長が福島を訪れた際の写真が象徴的だ。防護服に身を包んだ岡田氏が無防備な一般市民と手袋をはめたまま握手をしている。東京の平穏な日常のために福島に犠牲を強いている象徴的な図だ。何故これをおかしいと思わないのだろう?傲慢な為政者、それに憤らない国民。このことを問題として取り上げないマスコミの面々。

5/8 SankeiBizの記事「【放射能漏れ】岡田氏、警戒区域を視察 (1)」リンク先が見つからない場合はこちらをご覧ください。

原発への電気依存、電気依存から抜け出したい

電気は必要だけれど、原発はいらない。私が使っている電気は一体どこでどうやって作られて、どうやって運ばれてきているのだろう?電力も家づくりや農作物と同じで「近場で作る」という事ができないだろうか。近場で作れば送電ロスも少なくなり効率も上がるはずだ。大都会は困るかもしれないが、多くの地方は地元で賄えるのではないか。たとえばお米や野菜を買う時には、どこの土地で誰がどうやって作ってくれたのか関心があるから「生産者の顔が見える」商品を選んで買うことが多い。それと同じだ。
安全性に対する不安が露呈されても、原発がなければ日本経済が成り立たない、CO2排出削減にも影響が出る、だから廃止は難しい、という意見が思いのほか多い。けれど、私は、危険なもの、巨大なものを背負わずに成り立つ経済や暮らしのしくみを構築するという社会的挑戦のほうを選びたい。
電気に頼る度合いの少ない暮らしと社会のしくみを作らなければ。原発がとまってもやっていける暮らしを実現するには、食料も家づくりもエネルギーも、目に見える範囲の地域単位で成り立つしくみを作れたらいい。電気とのお付き合いは「なくてもおおかた暮らせるんだけど、便利だから使わせていただく」という感じで。
(1)電気でなくてもできることは電気以外で
「電気でできるものは電気で」という「オール電化」の考えの逆を行って、電気を使わなくてもいいものは、使わない。煮炊きや暖をとることは、都市部以外であれば、プロパンや薪でもできる。
(2)自家発電
自分で電気を起こし、それを自分で使うことができないものか。これまでの電力会社とセットになっているソーラーパネルだと、つくったその瞬間の電気を作ったり電力会社に売ることはできても、その電気を蓄電して自分で後から使うことができない。家庭で蓄電できるしくみが普及してくる必要がある。自分でつくった電気で充電してクルマを走らせることができたら、石油への依存も最小限に!地方であれば、ソーラーだけでなく、小水力発電や風力も可能性があるかも。

朝30分自転車ペダルを漕いで、携帯電話の充電分ぐらいは、電気を貯めるとか、昔のミシンのように、机の足元にペダルが付いていて、ペダルを動かしつつ、手元ではパソコンを使うとか、ペダルを漕いではじめて見ることができるテレビとか。そんな自家発電ができたら、使いたい。
(3)地域での発電
家庭で、ということがむずかしければ、ある地域のまとまりで発電できないか。波力、地熱、バイオマスなど、地域性を活かした発電事業が考えられるはず。そのためには、今、発電・送電・配電を電力会社が一手に握っている独占状況を変えなければなりません。送電線の自由化が必要です。原子力発電が一極集中の集権的な電力であるとすれば、これからは地域分散型の電力が求められる。
町中にあふれる自動販売機。何を決めるのも東京に出かけなければならない社会。あまりに膨張しすぎたから、毎日の通勤時間が2時間以上かかっても疑問を感じない社会。ネクタイを締めた人が本当に物を作っている職人などより偉そうにしているし、お金もたくさんもらっている社会。落ち着いて考えればおかしなことはいっぱいだと思います。そんないろいろについて、今までの生活が失われるから仕方がないと考えるのが大きな問題です。
無駄なエネルギーを使わなくて済む社会作りを求めていく。簡単に言えば地方分権ですね。大阪府の橋下知事が関西広域連合に「脱原発」の提案をし、滋賀の嘉田知事は賛同、兵庫と京都の知事は慎重な対応を求めました。それでも、こういった提案がされるということは、関西広域連合の値打ちがあると言えますね。今までなら、大阪の知事が言っている。滋賀の知事もそれは良いことだと言っている。それだけで終わりだったと思います。でも、今回は「時期尚早」ということであって、脱原発が良くないことだということではない。代替エネルギーを考えようとか、次につながる話になったと思います。関西広域連合では、大阪と滋賀が中心になって新エネルギーの開発について研究することになったようです。

脱・電気依存症の家づくりへ

「省エネ製品をたくさん使って、省エネしよう」というのが、国の住宅の省エネ政策でした。機械を使うことを前提としないで過ごせる、昔ながらの家づくりを見直す道もあるのに!

国はこれまで、電力会社とともに「オール電化」を推進し、シックハウス法で不必要な住宅にまで換気扇設置を義務付け、「エコ替え」というふざけたネーミングでまだまだ使える自動車や電化製品を無理やり捨てさせ、飛びつきたくなるような買電価格を設定して決して建物にとって良いとは思えない太陽光パネルを奨励し、合板やプラスターボードや建材や石油系断熱材を使った家づくりを優遇し、直接間接を問わず化石燃料や電力を使うべく仕組まれたエネルギー政策・住宅政策を改めて欲しい。
現代の家づくりは電気の存在を当たり前の前提としたものになりすぎていなかったでしょうか? 
(1)24時間機械換気
室内に有害物質が蓄積しないよう、シックハウス対策として常時換気を法律で義務付けていますが、電気が来なければ、成立しません。むしろ、室内に有害物質が蓄積しない素材だけでの家づくりを考えるべきではないでしょうか?無垢材や土など、自然素材しか使わない家であれば、そもそも機械換気そのものが不要となります。
(2)オール電化住宅
電気が来ないと暖をとることも、煮炊きすることも何もできません。太陽光発電とセットの場合でも、電力会社で買いあげるだけでその場に蓄電して使えないケースがほとんど。しかもオール電化住宅の急速な普及が電力需要を押し上げ、電力不足に拍車をかけているともいわれます。電力会社がさかんにキャンペーンしてきたオール電化住宅に無理があること、今回のことで多くの人が感じたのではないでしょうか。
(3)エアコン
鎌倉時代、吉田兼好が「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる」という言葉を残しました。寒い夜に計画停電を経験してみて、重ね着、湯たんぽ、焚き火、あたたかい鍋など、着るものと火があれば、寒さを凌ぐ術はあると実感しました。が、夏場、エアコンの使用を前提とした家であれば、電気が来なければ、暑い空気から逃げる道がありません。猛暑の夏に計画停電となったら、大困りです。軒の出や風通し、無垢材の吸湿作用、緑のカーテンなど電気に依存しない、家のつくり方そのものでエアコンに頼らない家づくりを!
写真左/西側の下方に地窓 中/襖や障子を閉めた時にでも、鴨居の上は風が通るように、開け閉めのできる欄間障子をもうけている 右/東の高窓。これで西の下方から入った空気を引く(過去の木の家ネットの記事より
家づくりの在り方も、電気依存の考え方を改める転機にあるのではないでしょうか。夏は涼しい土壁を見直して欲しい。断熱性能一辺倒ではなく、風通しの良い家を見直して欲しい。電気やガスといった化石燃料を必要としない薪ストーブやウッドボイラーを見直して欲しい。エネルギーを効率よく使うという事も大切だが、はなから化石燃料を必要としない快適さの方ががいい。
エコポイントの実施で「省エネタイプの空調」を設置する人が増えて、結局は家庭用の電気消費量はかえって増大したということが報道されています。復興構想会議の梅原猛氏は「文明の転換期」に差しかかっていると発言。国民の目も明らかに変わってきている。フランスの放射線防護原子力安全研究所のジャック・ルピュサール氏からも「日本はテクノロジーを過信しすぎる」との警告。それなのに、国のエネルギー政策は電力独占のまま。原発頼みの電力供給、命よりお金が大事な暴走列車。方向転換をしてほしい。

※エネルギーをめぐる国の方針は刻々と動いており、5月に入って菅直人首相が「2030年の総発電量のうち50%を原子力と想定したエネルギー基本計画を見直し、太陽光、風力発電などの再生可能エネルギーと省エネ社会実現を2本柱とする」と発表しています。5/26の時事通信社発の朝日新聞の記事『自然エネ、20年代に2割=原発事故の教訓伝達「歴史的責務」―首相がOECD演説』リンク先が見つからない場合はこちらをご覧ください。
原発事故後の3月28日、経済産業省資源エネルギー庁がこれからの国の進む道の基本となる「省エネルギー技術戦略2011の策定」を発表。「省エネ電気機器をたくさん付けて省エネ」という国の方針、なんとかならないものでしょうか?策定をつくった委員は電力会社・ガス会社・電気製品会社。「省エネで金儲け」の魂胆が透いて見えます。「改正省エネ法」もしかり。いつまにか通っていたということにならないよう、目を光らせている必要があります。
家電製品であれば大きな製品を買おうとして効率の良いものを選ぶより、小さなものを選んだり、不必要なものは買わないことが重要です。車については大きな車より小さな軽自動車に乗ること。さらに車ではなく自転車に。自転車がつらいならアシスト自転車を購入するのも良いでしょう。住まいで言えば、断熱性能の良い家を造るだけでなく、無駄に大きな家にしない。さらに、耐久性をあげて、できるだけ長持ちするように考える。製造時や廃棄の時に大きなエネルギーのかかるコンクリートや鉄骨の建物を選ばず木造を選ぶ。同じ木造なら、耐久性の高い国産の木材を使った在来工法や伝統構法を選択する。国産木材を使うなら、できるだけ輸送にエネルギーの掛からない地元の木を使う。いろいろ考えていくと今の社会が進んでいこうとしているところと反対のことになります。そろそろ大量消費に支えられる馬鹿げた社会を終わりにしなければなりません。でもそういう社会を終わりにすれば、お金は手元に残らないかもしれませんが、幸せは必ず残るようになると思います。

原発災害後に考えたこと、さいごに

5月24日、国では2030年までに太陽光発電を現在の15倍にする「サンライズ計画」を発表しました。が、原発の代替案に飛びつくだけでは、全体は解決しきれません。社会のあり方そのものが問われています。

脱原発=自然エネルギーへの転換という図式に安易に乗ってはなりません。自然エネルギーに過度な期待を抱いてはいけません。太陽光発電や風力発電をはじめとする自然エネルギー発電はかえって石油の浪費につながるという事実を直視すべきです。そういう思考を持たなければ、結局は巨大な利権に利用され飲み込まれてしまいます。問われるべきは、エネルギー多消費型のわれわれの現在の社会のあり方に他なりません。

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東北自動車道、福島県内。地震でできた路面の凹凸がそのままで、車が何度も揺れる。今年もまた、桜が咲いていた。(撮影日:4/20)