熊本城の手前、横長の大きな屋根が見えるのが、2008年に復元されたばかりの本丸御殿(熊本城Webサイトより)
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木の家ネット第9期総会・熊本大会の報告


職人がつくる木の家ネットでは、毎年11月に、各地方の会員が幹事をもちまわりして総会を行っています。総会は年一回の懇親の場であるだけでなく、情報交換、情報共有、そしてお互いの学びの場であり、会員は毎年の総会を心から楽しみにしています。

第9期を迎えた今年の総会は、九州メンバーの企画により、11月14日(土)〜15日(日)、熊本で開催されました。初日の14日には、本丸御殿が復元された熊本城の見学、復元工事に携わった設計者による講演、懇親会、深夜討論会が、15日には定例総会、水前寺公園やジェーンズ邸、九州メンバーが建てた家の見学が行われました。さらに希望者は、15日の夜、3F建て木造の町並みで知られる日奈久温泉にまで足を伸ばしまし、16日(月)まで滞在しました。今回のコンテンツでは、幹事をつとめた九州メンバーの報告をもとに、第9期総会レポートをお届けします。

熊本城に続々と集まる
木の家ネットのメンバーたち

今年の総会の集合場所は、熊本城。14時に受付が始まると、飛行機で、新幹線で、フェリーや千円高速を利用しての車で、同伴者を含め77名の参加者が続々と集まってきた。遠いところでは北海道から、秋田からの参加者もあり、九州まではるばる、よく来てくれたと嬉しくなる。

伝統木造の家づくりをしている者にとっては大変な時代である今、木の家ネットは私たちにとって、灯台のような役割を果たしている。道しるべであり、希望の星である。本来の日本の建築である伝統構法が、法律上認められていない。それを「変えなければ」の思いで大工、工務店、設計者、ほか職人、林業関係者など実務者が一丸となって、具体的な行動を起こしている。そんな情勢の中で開かれた熊本総会。総会参加率の高さには、こうした背景がある。

総会の受付開始に先立って到着したメンバーは、予約者のみが食することができる復元料理「本丸御膳」を味わった。煎酒とか室町時代からの調味料や「くしいと」というポルトガルから伝来した料理など、普段は食することのできない料理を堪能。高かったが、満足。「殿様は普段もこの料理なのか」と尋ねると、これはやはり特別な料理であり、いつもは質素であったとのこと。変に安心した。

復元料理「本丸御膳」

西郷隆盛も寄り付けなかった難攻不落の熊本城
ここ50年で少しずつ復元整備が進む

この西南戦争の折に天守閣を含む本丸部分が火災で焼失。長いこと再建されずにいたが、1960(昭和35)年の築城350年を期に、市民からの寄付を集めながらの復元工事がはじまり、大小天守と平御櫓・長塀などが、ようやく再建された。以後も復元整備計画が何回かにわたって進められており、1998(平成20)年には、約50億円の予算をかけて、「本丸御殿」が元通りの木造で復元・公開された。御殿には藩主の居間、大広間、茶室、台所などがあり「お殿様の応接空間の豪華さを味わえる」と観光客が倍増した。今も「一口城主」とよばれる市民の寄付を募りながら、次の10カ年計画のステージの準備に入っているそうだ。

復元された建物に学ぶ

受付後、夕方の集まりまで、熊本城と刊部邸の見学となったが、2班に分かれて歩き出す前に、まずは南大手門に一堂に会した。一般の見学者は入ることのできない南大手門の2階に特別に上げていただき、熊本城の復元工事に携わった熊本市職員の下田誠至技術主幹と、設計監理で関わられた西島真理子さんに復元工事にまつわるお話を聞いた。復元工事にまつわる現場の話を聞いた後、ひとつひとつの建物を自分の目で見ていくと、復元された時期によって、復元の方針がずいぶんと違うことを肌で感じた。学びの機会をくださったお二方に感謝。

コンクリート造での「外観復元」から
木造による復元へ

往時の熊本城は言うまでもなく伝統構法で建てられていたが、今の日本では、それが法律的に認められていない。そこで、現行の法律を守るために、数々の補強や構造変更がなされることになる。たとえば、1960年代に再建された天守閣や櫓、塀は、構造はコンクリート造。うわべだけが木でできた城に見せかけた「外観復元」だ。1980年代ごろからは、元通りの「木造による復元」に変わっていくのだが、そんな流れの中、1981年に完成した木造再建の第1号、西大手門が1991(平成3)年の台風19号で倒壊してしまった。

2000(平成12)年に建築基準法に「性能規定」ができるまでは、合法的に伝統構法の建物をつくることは、厳密にはできなかった。それが、性能規定化、つまり、基準法の仕様規定と合っていなくても、構造計算によって構造安全性を確認できればよいように変わった。それを受けて「伝統構法を生かす木造耐震設計マニュアル〜限界耐力計算による耐震設計・耐震補強設計法(通称・関西版マニュアル)」が発表されたのが2003(平成13)年。以後、限界耐力計算を使い、合法的に伝統構法を建築できる事例が増えていった。

2002(平成14)年に完成した南大手門の復元においても、西大手門の轍を踏まないよう、安全性を確保するための耐震・耐風補強がなされた。しかし、伝統構法に合った限界耐力計算は南大手門の設計段階ではまだ実用化されておらず、許容応力度計算にのっとった耐震設計・耐震補強となったのであろう。元の南大手門にはなかったはずの壁が、多く入れられている。

左:南大手門 外観 右:その内部。元々あった柱梁には、当時の道具である「ちょうな」で削った跡が荒々しく見えているが、追加された耐力壁部分の柱には機械で平らに削られた製材品が使われており、柱の間には土壁色のポリカーボネイトの板がはられていた。

もとどおりのつくりの部分と平成の考えで補強した部分との差異を明らかにするために、復元工事でありながら、新しい技法を用いた部分はそれと分かるように仕上げてあり、新しく入れた耐力壁がことさら目に付く。「伝統構法では足らないから、現代に合った形で補う」という考えが透けて見えるような印象を受ける。

伝統構法らしい復元とはなにか?を
新しく公開された本丸御殿で考える

それと比べて、7年の時を得て2008(平成20)年に完成した本丸御殿が本来の形に近い形の調和のとれた復元に成功しているのは、伝統構法の性質を活かしやすい限界耐力計算での構造計画ゆえと見受けられた。

伝統構法は「自然を克服する」のではなく「自然への畏敬の念を持って折り合う」という日本人の自然観にもとづいたものであり、そのもとでの構法と術である。同じ復元をするのでも、耐震性や防災性などを確保するにあたって伝統構法の道理に沿って補うのか、あるいは現代的な手法で補うのかで、できあがる建築の印象はまったく変わってくる。復元された建物には、創建当時の趣きだけでなく、復元した時代の考え方も反映されているのだ。

本丸御殿復元にあたっては、素材面でも往時の技術にこだわっており、漆喰に石灰ではなく、貝灰を使用している。往時は有明海の「アサリ貝」を用いていたそうだが、今回は缶詰工場から出た赤貝を焼いて作ったとのこと。石灰とは違った色相が出て、全体の雰囲気に貢献している。材料にまでこだわった復元に関わった方たちの努力に、感謝。

本丸大広間

復元という行為は、創建当時の時代の息吹を伝えることを目的とする。とすれば、過去の建築を現代の法律の尺度に押し込める復元には、その目的に外れた無理がどうしてもでてくる。いまわれわれが国に求めているのは、構法、設計の多様性、自由度。伝統構法には伝統構法らしい復元方法を。この熊本城の復例を見ても、そう思う。南大手門と本丸御殿、どちらが自然か。どちらが美しいかと。理に合わないものは美しくない。

(悠山想 宮本繁雄 & 事務局 持留ヨハナ)

本丸御殿復元工事をめぐって
西島真理子氏の講演

熊本城、細川刑部邸をゆっくり駆け足で見学後、宿舎でもある水前寺共済会館に移動。九州のメンバーの仕事パネルや熊本の梅田忠臣棟梁の足固めモックアップ模型が展示されたホールで、熊本城の復元工事に長年かかわられている西島真理子氏に「本丸御殿復元工事の解説」と題した講演をしていただく。この復元工事が(財)文化財建築保存協会の史実に基づいての復元設計・工事を行なうだけでなく、ヒト・モノを地元にこだわり、伝統的な工法を次世代に伝えるプロセスでもあったことを知る。

左:闇り(くらがり)御門 中央:昔の図面「御城図」立体物を平面に落とし込む方法が独特です。 右:消失前の熊本城が偶然映っていた写真を分析して、復元の資料としました。

他の城にない地下通路「闇り(くらがり)御門」の特徴、絢爛豪華な御殿を飾る障壁画、天井絵の復元根拠、「長六畳」の特徴的な高石垣の上に建つ茶室の解説など、詳細な調査資料などを示しての話は、昼間見学した建物のことであり興味深く、質疑応答では、使用された1700立方メートルの木材の調達方法や、乾燥方法、二重の石垣方向から見える茶室のアルミサッシについてのきびしい感想などが交わされ、時間オーバーで終了。残りは懇親会の場に持ち越しとなった。

(FU設計 梅田彰)


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絢爛豪華な昭君之間(しょうくんのま)。「将軍の間」の隠語という説もあるそうです。