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林材ジャーナリスト・赤堀楠雄さん:無理のない自然な存在、それが木の家


林材ジャーナリスト赤堀楠雄さん

・1963年生まれ。東京都出身。 ・1988年〜99年、林業・木材産業界の専門新聞社に勤務。 ・1999年5月に独立。 ・ 以来、フリージャーナリストとして、森林・林業・木材・木造住宅に関する取材に従事。

林業の取材で全国各地をまわる

今の僕はフリーのジャーナリストとして、森林や林業、木材をさまざまな角度から取材しています。肩書きは「林材ジャーナリスト」と自称しています。ただ、それ以外のことを取材することもあるので、そうしたときは「フリーランスライター」という肩書きを使います。

仕事を通じて木と関わるようになったのは、大学卒業後、林業・木材関係の専門新聞社に入ったのがきっかけでした。当時は特別な思い入れがあったわけではなく、たまたま応募したら受かったというのが本当のところです。ただ、木材がかなり輸入されているというのは何となく知っていましたから、いろいろな国に取材にいけるのではという期待もありました。実際、外国には何回かいかせてもらいましたが、日本国内では各地に支局があったので、地方に取材にいくことは年に数回あるかどうかでしたね。それでも入社するまでは全然触れたことのない世界だったので、とても勉強になりました。それにいろいろと見聞きするうちに、やっぱり木はいいなと思うようになりました。もともと自然は好きだったんですが、取材を通じて森林や木材への思い入れが強まっていったという感じです。

その新聞社には結局10年11ヶ月勤め、3年前にフリーになりました。フリーになってよかったのは、現場に行く機会が増えたことです。今度は支局なんかなくて1人でやっているわけですから、常に自分で足を運ぶことになります。そのためか、この3年間は新聞記者時代の11年間に匹敵するか、それ以上に中身の濃い時間を過ごしていると感じます。今のような不景気な時代だと、どの企業も固定費をかけたがりませんから、僕のようなフリーランスの存在はかえって重宝されているのかもしれません。おかげで月に1・2回は地方取材がありますし、多いときには、月の半分近くも地方に行っていることがあります。そうやって現場に行き、いろいろな人の話を聞けるのは面白いし、ありがたいと思いますね。

壊されてしまう木造校舎から、 無垢の木の机を払いさげてもらったこと

屋久島の縄文杉(*)

今思えば、最初に木を意識したのは小学生の時でした。当時は東京の府中市に住んでいて、通い始めたばかりの頃の小学校は木造校舎だったんです。だけど小2の時、コンクリート造に建て替えられることになり、それまで使っていた木の机と椅子も同時に廃棄処分することになったのです。その時、母が「木の机を捨てるなんて!」と惜しがって、机と椅子をいくつかもらってきたんです。それを見て「木って大切なものなんだ」と、子どもながらに感じたことを覚えています。

小学校に入学したときに家を増築することになり、その際、大工さんに木製の勉強机をつくってもらったことも木との出会いのひとつかもしれません。その頃はちょうどスチール製の勉強机が出始め、友だちはみんなそれ。僕もほしがったのですが、親から「この方がいいのだから」となだめられたことを覚えています。結局、その机は今でも使っているんですけどね。

両親は昔気質というんでしょうか、自然のもの、人が手をかけてつくったものを大切にする気持ちをふつうに持っていました。僕が子どもの頃はプラスチックに代表される人工的な素材で作られた新しいものがどんどん登場してきたんですが、あまりウチではありがたがらなかったですね。父はもう亡くなりましたが、母は今も「人工的だからダメ」という言い方をよくします。別に新しい物全てがイヤなわけではないんでしょうが、それが無理のある存在のしかたをしていると「人工的」と言って遠ざけるという感じかな。そういった感覚に僕も結構影響されたのかなと思いますね。


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