改築前はほとんどの柱が3寸角というほっそりした家だったのを、1階は補強、2階は新しく作り直し。
ガッチリとした、安心感のある、木の香りのする家に生まれ変わって、高橋さんも大満足。
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設計士・高橋昌己さん(シティ環境建築設計):東京でも木組み土壁の家を!続


つくり手:高橋昌己さん(シティ環境建築設計)

聞き手:持留ヨハナエリザベート

昨年11月に公開した前半に引き続き、東京で木組み土壁の家づくりを実践するシティ環境建築設計の高橋昌巳さんの現場報告の後半をお届けします。

前半では、高橋さんが「木組み土壁の家」を「シティ環境建築設計のスタンダード」として確立するまでの道程を追いましたが、今回は、高橋さんが「東京だからこそ!」という問題意識で取り組んでいる現場を、2軒ご紹介します。

左/昭和30年代の弱い基礎+細い材の住宅を改築した事例 
右/都心に木造と塗り壁の3階建て二世帯住宅を新築した事例

1軒めは、既存の住宅の改修事例。昭和30年代に建った、構造材が細い上に、後からの部分的な改築で構造的にちぐはぐな状態になっていた家でしたが、安心して住めるように構造補強しつつ、土佐漆喰が風景に映える、魅力ある家として生まれ変わりました。

2軒めは、山手線の駅から徒歩5分という都心に木組み塗り壁を実現した新築事例。狭小間口の敷地で2世帯居住を可能にするために、構造的にハードルの高い3階建てとなりましたが「都心でも、木造でここまでできる!」ことを証明する好例となりました。

どちらも、都心の厳しい条件の下も、木や塗り壁での生活空間や風景を実現できる!ということが伝わる、意欲的な取り組みです。

既存不適格の建物であっても
なんとか「活かして再生」を!

戦後、高度経済成長、工業化社会の流れの中で、つくり手側の効率や採算が優先される「住宅産業」が興き、工場で生産されたパーツを組上げるような家づくりが主流となっていき、現在に至っています。そうした時代の流れの中、つい半世紀ほど前まではあたりまえだった、一棟一棟を手づくりする伝統的な木造建築は「手のかかること」「量産できないもの」として、取り残されていきました。

ところで、高度経済成長期に家づくりの担い手が産業化していったことで、住宅の質はよくなったのでしょうか? 実際には、戦後から高度経済成長期にかけて作られた木造住宅には、一軒一軒を職人が手作りする木組み土壁の家づくりと比べると、残念ながら質が劣ったものが少なからずあります。建てるのに丁寧に手間をかける時間もなく、材料も細く、出始めの新建材が使われた家は、今や、耐用年数を迎えて悲鳴をあげています。

1981年に施行された新耐震基準以前に建てられた家は、今でこそ「基礎が脆弱」「耐震性がなさすぎる」と見えますが、当時はそれが「合法」でした。度重なる震災による見直しで、建築基準法の耐震性の最低基準が底上げされていく中、それ以前の建物は「既存不適格」と位置づけられています。改修がむずかしいため、泣く泣くつぶしてしまうというケースも多いものです。

「できれば、つぶしたくない、あるいはつぶせない事情があるんだけれど、という相談が、結構あるんですよ。そういう事例が来ると、『なんとか活かす方法はないものか』と、燃えるんですよね〜」と高橋さんは言います。

ケース1:とことん改築
細身の家を構造補強した家

「既存不適格建物」をスクラップにするのか、社会的資本として活用できるのか。なかなか見極めのむずかしい問題ですが、できるだけ活かす方向で、と高橋さんは考え、当初は「再生は不可能か?」と見えたケースに挑みました。

昭和30年代に都会に建った家は
概して材が細い!

この家が建ったのは、昭和30年代。戦後復興から東京オリンピック直前頃までの時代に竣工した木造住宅は、急がれる復興の中での木材不足のせいで材が細い家が多いのですが、この家もその例外ではありません。柱は3寸角しかなく、コンクリートの基礎にも鉄筋が入っておらず、耐震的にはかなり問題がある建物でした。

まっさらに壊して建て直す方が、よっぽど簡単!というような事例ですが、前面の道路をめぐる解決しがたい問題があり、新築は不可能。「土地を売却して、他所に引っ越すしかないのか?」とまでせっぱつまった状態で、建て主さんは高橋さんの門を叩いたのでした。

「ここで育った息子が、海外赴任の任地から家族を連れて帰ってきたいと言っています。なんとか改築できないでしょうか?」そんな求めに応じて高橋さんは「条件は厳しいですが、出来るだけのことはして、いい家にしましょう!」と、起死回生の策に取りかかりました。

まずは、安心して住めるよう
構造補強を

基礎からやり直すのに、壁・床・屋根を落として軸組だけにした建物本体をジャッキアップ。柱は3寸角しかなかった。

まずは、建物全体をジャッキアップして、今の基準法に則った鉄筋を入れたコンクリート基礎を打設。その上で、軸組で構造的に不安な部分を補強しました。具体的には、細かった材を、太いものと交換。土台は5寸角の桧材に、通し柱は7寸角、主要部の柱は5寸角に置き換えたり、改築として許される範囲内で、十分な太さの柱を追加したりしました。

ただし「大規模な改築」には該当しないようにこの事例を成立させるには、元の構造材の50%以上を残さなければならないという法的な縛りがありました。苦肉の策で、元の3寸角の柱の表面をコの字状の板で覆って太らせたところもあります。もともとこれだけの太さがあったかのように、仕上がっています。

左/一本の柱に見えるが、実際には元の三寸角のまわりに板を抱かせて太らせている。 右/「ガッツリ金物使ってます」と高橋さん。

脆弱な接合部を補強するのに構造金物も用いました。「『金物に頼らない木組み土壁の家』というのは、必要十分な材を使える新築の話です。構造的に弱い家に住み続けるためには、金物は使う必要がある場合があります。構造的に必要な強度を見極め、臨機応変に対応しています」と高橋さんは言います。

創建当初の丸太の梁、上に二階を増築するためにあとから入れた鉄骨、今回新調したり太らせたりした柱などが混在しているのが見える。

平屋建てに無理やり載せた、いわゆる「お神楽」造りの2階部分は、いつも高橋さんが新築で手がけている感覚で、伝統的な工法で作っています。「1階には苦労しましたが、2階はのびのびとやれて楽しかった!なかなかいいでしょう?」と高橋さんは目を細めます。

小屋裏もあらわしにした、開放的な木の空間として作り直した二階。

外観は土佐漆喰仕上げで
イメージを一新

外観は、土佐漆喰の金鏝押さえ仕上げで、美しく輝く白い壁を作り出します。杉の木摺り下地にモルタルを下塗り、その上に土佐漆喰と中塗り土を混ぜた「ハンダ」を塗り、さらに「砂漆喰」を上塗りし、7mmの「土佐漆喰」で仕上げるという、分厚い仕上げです。その表面をコテで硬く押えた壁は鏡面のように美しく、そして耐水性をも兼ね備えます。

「伝統的な家づくりでは、構造も大事ですが、魅力ある仕上げを心がけることも同じくらい大事です。仕上げが風景を創るわけですからね。白壁に木が直行する真壁漆喰塗り仕上げの日本の原風景といえるような家を、一軒でも多くしていくのが僕の夢です」と高橋さんは語ります。

日本の原風景を復興したい!
それが使命だと思っています

土佐漆喰できれいに仕上がると、改築だということを忘れるほど。「今回の工事に着手する前までのこの家は、このままでは息子さん一家が帰ってきたあとは住み続けられない『マイナス』な状態にありました。その条件がクリアできてもそれは『ゼロ』の状態にもっていけたというだけ。それでは『修繕』に過ぎず『再生』とまではいえないでしょう。家が完成した時に『えー、こんなに良くなるの?!』とびっくりされるような状態にまでもっていってはじめて『再生』と言えるんです」ご家族の喜ぶ顔を想像できる仕事をめざす努力を、高橋さんは惜しみません。新築よりも、知恵と技を結集しなければできない仕事かもしれない、と感じました。

構造的にも意匠的にも満足できるレベルに再生できて、ご家族はもちろん高橋さんも満足そうなご様子です。「ちょっと大きく出た言い方になりますが『いちど壊された日本の原風景のエッセンスを復興し、未来につなげていく家づくり』が、できたかな、と思います。それが僕の使命だと認識しています」と胸を張ります。

2020年のオリンピックに向け、海外からみえるお客様への「お・も・て・な・し」ということがよく言われます。私たちがヨーロッパを訪れると「古い町並みがきれいだった」という感想をもつのと同じように、高橋さんの言う日本の原風景が日本を訪れる旅行者にとっての「お・も・て・な・し」の重要な要素になるのではないでしょうか?

次頁:→都心のど真ん中の木造3階建ての建築現場を見せていただきました!


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竣工後の写真。土佐漆喰、瓦、直行する柱などが形作る、落ち着いた外観。改築には、とても思えない!