中央高速から東海環状自動車道に入ると、途端にいくつものトンネルが続き、美濃加茂と多治見との間に横たわる山のかたまりの下を通っていることが分かります。トンネルを抜けてすぐの可児御嵩ICを下りて、平野部から山手へ、ぐんぐんと標高をあげながら走り続けていくと、道はどんどん細く、くねくねと曲がる山道に変わり、峠を越えて八百津町に入りました。来たのと同じようなくねくね道を下りきると、ゆったりと流れる木曽川べりに出ました。橋を渡ると、栗きんとん屋さんののぼりが連なる古い街並みに出ます。
ここ、岐阜県加茂郡八百津町に、木の家ネット会員の岡崎定勝さんが経営する岡崎製材所があります。八百津の「津」とは「船が停泊する所」また「港をひかえて、人の多く集まる所」という意味です。山の中から美濃平野に出る境にあたる八百津は古くから木曽の山々からの檜や杉などの木材が集積し、下流からは生活物資が届き、山の方から生活物資を買出しに来る人も集まる、水運で栄えた町でした。
木曽川の奥から切出す木曽桧は、伊勢神宮の遷宮用材としても知られ、日本三大美林のひとつに数えられます。名古屋から発する中央線は、多治見から中津川に入り、塩尻まで木曽谷を走りますが、沿線は、木曽福島、上松など、日本でも有数の木曽桧の産地があります。さらに上流には、以前木の家ネットでも紹介した春野屋漆器店さんのように、木地に漆を塗る職人さんなどもおり、山で生計をたててきた地域です。同じ檜でも、岐阜県東濃地方の裏木曽で産したものは、同じ木曽川沿いであっても東濃檜と呼ばれます。
親子3代、大家族での暮らし
屋号の「カネマス」が描かれたガラス戸の向こうから、岡崎さん、奥様の政子さん、長女の恵子さん・元(はじめ)さんご夫妻と子供たち3人の7人と、次々とご家族が現れてのお出迎え。落ち着いた家並みが続く静かな通りが、いっぺんに賑やかになりました。ほかにデイサービスに出かけた岡崎さんのお母様と、外出している恵子さんの妹と合わせて9人が同居する大家族です。まずは、自宅兼事務所と通りをはさんで向かい側にあるショールームで、お話をうかがいました。
岡崎家は物資の集散地であるこの八百津で油屋さん、生糸商など、さまざまな商売をしてきましたが、3代前から、生糸と並行して材木商を始めたそうです。関東大震災で横浜にあった生糸の倉庫が失われたことで、生糸はやめ、材木商一本になりました。材木商と言っても、材を売るだけではなく、自ら山を育て、自分の山から出る木も買い求める木も製材し、売るところまでを一貫して手がけていました。
「親父の代までは、山から川で流してきた原木をここで筏に組んで下流に流していたそうです。筏を組む専門の人や筏乗りの人が住む集落がありました。ここを朝3時に出て、中山道鵜沼宿まで運び、櫂をかついで歩いて帰るのが日課だったと聞いています。」太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に兼山ダム、1952年(昭和27年)にその上流に丸山ダムができ、木曽川は今のように川幅が広くなり、堰き止められた川からは、筏や船は姿を消しました。
木曽川べりの製材所
大洪水に遭う
岡崎さんの自宅兼事務所とショールームのある通りは木曽川のぐっと高さのあがった河岸段丘の上にありますが、製材所はショールームの脇から、木曽川のほとりへと下ったところにあります。工場の裏側はすぐ木曽川で、川面からの高さはわずか3メートル。水運の時代には、上流からくる原木を貯木し、製材品を下流に送るのに最適な立地であったにちがいありません。
ところがそれが裏目に出る結果となることが起きました。1983年(昭和58年)9月28日、台風10号が東海地方を襲い、かつ、木曽川上流部での集中豪雨も重なり、八百津上流にある丸山ダムが大量に放水、木曽川の水かさが溢れ、美濃加茂地方一帯は大浸水しました。家のある通りはぎりぎり無事でしたが、お父様の代から岡崎さんに代替わりして新しく購入したばかりの、ボタンひとつで製材の全工程をおこなえる全自動の機械を入れた製材所も、高さ10メートルもの大水に浸かってしまったのです。
「雨がどんどん激しくなってきて、これは危ないのでは?とダムの事務所に電話をいれた5分後、水門を一気にあけたのです。洪水にならないよう、水量を調節する役目をもつはずのダムであるのに、裏腹な結果になってしまいました。」入れて3年目、やっと慣れかけてきた全自動の製材機も泥水につかって使えなくなり、製材品も原木もみな伊勢湾へと流されてしまいました。損害額は1億円以上。
「うちの原木にはカネマスの焼印をしてあるのですが、知多半島の先端の野間のある方から『お宅のものが流れ着いてますけど』とお電話いただいきました。取りにいくすべもありませんでしたけれど」まだ小中学生の子供たちの子育て中だった奥様の政子さんも、当時をふりかえっておっしゃいました。「本当に大変なことでしたが、家族が全員無事だった、そのことだけが救いでした。代替わりしたばかりの若い私たち夫婦でしたが、なんとかがんばるしかない、と思いましたね」
危機からの展開
材木屋がこだわった家づくりへ
「在庫も製品も失い、丸裸でした。その上、真新しい機械をオーバーホールするのに、多額の費用が必要となってしまいました。先祖が蓄えてきてくださったおかげでなんとか切り抜けてはきましたが、その頃の借金がいまだになくなっていません」経営は規模縮小を余儀なくされ、高齢で自然退職していく社員を新たに補充することなく、いつしか全自動の機械を岡崎さんがひとりで扱うようになっていきました。
しかし、それは単なる規模縮小ではありませんでした。この存続の危機を境目に、岡崎さんはそれまでとは違った切り口での仕事のありかたを模索していくようになります。それが今の岡崎製材所の最大の特徴である「材木屋がこだわった木の家づくり」でした。