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縁のある家


■おばあちゃんの縁側

野村たかあきさんという版画作家による「ばあちゃんのえんがわ」という絵本があります。おひさまがぽかぽかの縁側にばあちゃんが登場、つづいてお嫁さんがお茶セットをもって置いていきます。裏のじっちゃんがやってきて縁側に腰掛けて一杯お茶を飲んでいく、むこうの家のこどもがばあちゃんの薬を届けにくる、まごがばあちゃんの膝にのりにくる・・・。そんな情景が淡々と描かれています。 一方、上田篤「日本のすまい」には、息子夫婦が新築した明るい洋風住宅に移り住んだおばあさんの話が書かれています。

・・・おばあさんはいう。むかしの家にはみな縁側があったので、としよりは縁側にすわって、針仕事をしたり、孫のお守りをしたり、また庭にではいりして、一日をすごすことができた。さらに縁側にすわっていると、通りがかりの人びとの様子をよくみることができる。近所の人とも挨拶できるし、たまには、縁側に腰かけて話しこんでいってもくれる。雨がふれば障子をしめればよし、お天気になれば障子をあけたまま昼寝をすることもできる。縁側はとしよりにとっては安全で、しかも快適な場所だった。そういう縁側のない新しい家は、としよりにとっては不便で味気ないものだ。

その続きをかいつまんでいうと、息子がその家のモダン・リビングにテレビを買ってくれたこと、おばあさんにしてみれば「ひまつぶしにはなるけれど、しゃべり相手ではないからやっぱりさみしい」とこぼしていることなどが、書かれています。

■縁側で生まれるコミュニケーション

縁側がなくなって、なにが失われたのでしょうか? 外部環境から守られていながら、外をひとつながりの空間として感じながら、ぼーっとしていられる時間。「お茶、飲んできな」「ナス、いるかい?」といった気軽なコミュニケーション。用事で埋め尽くされた現代の生活からは、失われてしまった時間やつきあいが、縁側にはありました。 庭先からちょっとその家をのぞいてみる。縁側に人がいるな。「こんちは」と声をかけ、応対に出た家人と軽いあいさつをする。お茶によばれれば、どっこらしょと、履き物はそのままに腰掛けて、いただく。天気の話、ちょっとした噂話、畑の蒔きどきや収穫の時期などについての話もでるかもしれません。「じゃ」と適当に切り上げる。わざわざ約束して、用事があって会うのではない、人との淡い、ゆるやかなつきあいがそこにはあります。 靴を脱いで、玄関からわざわざ部屋にあげてもらうとしたら、どうでしょうか。10分だけお茶を飲んだら腰をあげて失礼することは、かえって、しにくいでしょう。となると、相手がその時、部屋に自分を招き入れられる状態かどうかも気にはなるから、やはりあらかじめ電話して、都合をきいって「わざわざ」訪問するようになります。そこまでの必要はないかな、ということで、なんとなく疎遠になる・・・。家から縁側がなくなっていくのと同時に、「つきあい」も気軽なものではなくなり、家庭はひとつひとつの単位に孤立していくようになるのです。

■核家族の悲劇

何世代も住み継いできたふるさとを離れ、人が都会にでてくるようになり、親と子だけの「核家族」化がどんどん進みました。うっとうしい、わずらわしいつきあいに時間をとられることがなく「プライベート」がしっかりと守られる反面、以前ならば近くの他人に世話になったり、教えられたりして覚えたことを、受け継ぐこともなくなりました。毎日お父さんの帰りが遅い家庭では、孤立した母親が育児ノイローゼ気味になったりすることもあります。 そして、家庭の外は「知らない人」ばかり。子供は、親以外の他人に声をかけられたり、叱られたりすることがなく、むしろ家庭や学校では「知らない人に声をかけられる」ことに対して用心するように教えられます。あいさつを交わすこともなく、傍若無人な態度や、公徳心のない行動に歯止めをかけてくれる「近くの他人」の目もありません。 最近、少年犯罪の低年齢化や、していいことといけないことの区別がつきにくい子どもが増えてきていることが社会問題化してきていますが、教育学者の浜崎幸夫さんは、現在の日本の都市部では、子育ての問題が母親、父親との関係に限定されすぎていることを問題として指摘し、マザリング(母親業)ファザリング(父親業)のほかに、血縁に関係なく成立する「アザリング(他人業)」の重要さを説いています。核家族が大家族に戻ることが無理だとしたらば、なんらかのかたちで、アザリングが登場しうるコミュニティの再生を考える必要があるのではないでしょうか。

■コミュニティの再生

浜崎幸夫さんは、核家族の子育て支援に関して「縁側の子育て」を次のように説いています。

子育てには大きくいって、縁側の子育てとタコツボの子育てとがあります。

縁側の子育てとは、内と外の中間領域である縁側をもつ子育てです。縁側には、人と人が気楽に集まり、井戸端会議に花が咲きます。縁側は大人同士のたまり場・居場所でもあり、子どもの遊び場でもありました。縁側の子育ては、実の親のみならず親しい他人の集団に見守られながら成立する子育てを意味しています。縁側は住宅構造上の縁側と、実の親のみならず、親しい他人を巻き込んだ、親しい他人と共に行われる子育てのすべてを象徴する言葉なのです。

タコツボの子育ては、少子化で成員が減少した家族が孤立化し、タコツボ状の家庭の中で、ほとんど実の親のみで行われる子育てを示しています。タコツボは住宅構造上、他の家と遮断され孤立化した家屋、あるいは家庭内で孤立した個室を意味し、心理的には他人との結びつきを遮断し、実の親のみで行う子育てのすべてを象徴しています。

今日の子育て情況は、縁側からタコツボへと急速に変容しています。タコツボの子育てが種々の子育ての問題を生起させているのです。あなたの子育てはどちらですか。あるいはどちらをめざして子育てを行っていますか。

次の世代をどのように育てる家なのか。敷地いっぱいに建て、部屋で埋め尽くす、外界に対して閉じた現代の家づくりに、もういちど自然や家庭の外に対して開かれた「開口部」、内と外とを連続的につなげる「緩衝空間」を復活させることを考えてみてもいいのではないでしょうか。家を建てるには、老後の問題や子育ての問題は避けて通れません。そこを積極的に考えることで、家に柔軟さや豊かさが生まれるにちがいありません。 マンション住まいや敷地条件の関係で、家を構造から考えることがむずかしければ、日常生活の中に「縁側的な」発想であらたなつながりを、自分の身のまわりから生み出していくことを考えてみてはいかがでしょうか。たまり場的な子育てサークル、お年寄りとこどもが接する機会など、縁側的なふれあいや助け合いが生まれやすいコミュニテイづくりができるのではないでしょうか。

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