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その木のふるさとを知る


「山の木」と「木の家」とがつながらない

将来、家を建てたり、買ったりするとしたら、どのような家にしたいか。そう問われれば、ほとんどの人が「木造住宅」と答えるのではないでしょうか。実際、何年かに一度行われている政府の世論調査(※)でも、毎回約8割の人が「木造住宅がいい」と答えています。一方、同じ調査で「森林に期待する働き」についての回答を見ると、「災害防止の働き」がほぼ半数でもっとも多く、次いで「温暖化防止に貢献」と「水資源を蓄える働き」がともに4割程度と、いわゆる公益的な働きに対する期待が大きいことがわかります。ところが、「木材を生産する働き」を挙げた人は2割にも達していません。森林を木材の生産現場として見ている人はごくわずかだということになります。

「木造住宅」には住みたい。でも、国内の森から木材が生産されることには期待しない。調査結果を単純に捉えれば、日本人の多くがこのような感覚でいるということになってしまいます。でも、木を伐らなければ木造住宅を建てることはできませんから、何かしっくりきません。同じ調査では、木造住宅に住みたいという人の4割が住宅を選ぶ際に「国産の木材が用いられていること」を重視すると答えていますから、外国産の木材だけに期待しているというわけでもなさそうです。さらに、木材の利用が森林整備に必要だということを6割の人が「知っている」と答えているのです。

木の家には住みたいし、国産の木材も使いたい。木材利用の意義もわかる。でも、森林を木材生産の場として見ていない。もちろん、ほとんどの人は山の木が姿を変えて木材になることを理屈では理解していると思います。ですが、身近に利用している「木」と山に立っている「木」とのつながりが実はイメージできていない。そんな人が多いのではないでしょうか。最近は都心の居酒屋などでも古材が使われたりと、ウッディな空間が好まれていますが、その木がどこから来たのかは、ほとんど頓着されません。それが実情だと思います。

※「森林と生活に関する世論調査」。最近では平成15年12月に実施された。

都会では自然を意識しないでも生活できる

もともと、私たちの暮らしは自然と直接つながることによって成り立っていました。人々は水のあるところで暮らし、耕作し、森からは住まいや道具の材料になる木を伐り出し、あるいは燃料となる薪を調達していました。そのような暮らし方をしていると、自分たちの行為が自然にどのような影響を及ぼすのかを直接目にし、感じることになります。生活排水が汚れていれば河川や土壌を汚染することになりますし、次世代の木が育つペースを無視して伐採を続ければ、森は失われてしまいます。そうやって自然が疲弊してしまうと、暮らし自体が成り立たなくなります。自然の痛みを我が事として感じることになると言ってもいいかもしれません。

ところが、現代、特にライフラインの整った都市部では、私たちは自然の存在を意識することなく、便利で快適な暮らしを謳歌することができます。水道の蛇口をひねれば水はいつでも勢いよく出てきますし、使い終わった水が多少汚れていても、排水口に流してしまえば不快な思いをせずにすみます。住まいや店舗の「ウッディな空間」で使われている木がどこから来たのか、その木が伐採された後の森がどのような姿になっているのか。そんなことを意識しなくても、木の温もりや自然な風合いを楽しむことができてしまうのです。

自然を意識せずに暮らすことができるようになったために、私たちは自分たちの暮らしと自然とのつながりをイメージする力がいつの間にか弱くなってしまったのではないでしょうか。汚れた水を流したり、素性のよくわからない木を使ったりすることに何の負い目も感じない。だから、それがどのような影響をもたらすことになるのかを思い浮かべることもない。しかし、それは無意識のうちに河川の汚染や森林破壊に手を貸していることにほかなりません。環境問題が深刻化している原因のひとつがここにあります。

木のふるさとを知り、自然とのつながりを取り戻す

ただ、自然とのつながりを意識しようとしても、現実に自然と私たちとの間には大きな隔たりがあります。都会にいて川から直接水を引こうとしてもそれは無理ですし、みんながみんな食料を自給自足できるわけではありません。鳥のから揚げやスキヤキを見て、ニワトリや牛を思い浮かべろといわれても、なかなかそうはいきませんし、無理からぬことではあります。

ですが、見方を変えれば、自然とのつながりが間接的だということは、水にしても鶏肉や牛肉にしても、大本の自然から私たちのところに届けてくれる、つながりの担い手とも言うべき誰かがいるのだということにもなります。木の場合も同じです。山の木をそのまま持って行けと言われても、普通の人はまずお手上げでしょう。木のぬくもりを楽しむためには、やはり木を伐る人や製材工場、大工といった「つくり手」たちの存在が欠かせません。では、彼らの存在を知り、彼らの顔が見えるようになれば、どうでしょう。誰がどのようにこの木を扱い、家を建ててくれたのかがわかるわけですから、それをさかのぼれば、山の木にたどり着くことが可能です。あるいは、自分の家を建てるための木を山で伐り出すところから立ち会うこともできるかもしれません。そうなればしめたもの。自然とのつながりを直接的に感じ取ることもできるはずです。

森で育まれた水は、川となって上流から下流へとたどり、海に注がれます。海で温められて蒸発した水は雲になり、雨となって降り注ぎ、それをふたたび森が育んでいきます。同じように、森では何十年、何百年という長いサイクルで世代交代が繰り返され、循環の営みが続けられていきます。私たちは米づくりや野菜づくりに、あるいは家庭での生活用水にと、さまざまな形で水を利用しています。また、住まいや家具、道具類などに木を使っています。しかし、そうした私たちの行為は、自然の大きな循環のほんの一部分にしか過ぎません。そのことに気づき、自然の営みをできるだけ乱さないように配慮して、循環の流れに参加していくことが、自然と共生することになるはずです。そのためにも、自然とのつながりを担う「つくり手」たちと顔の見える関係を築き、自然とのつながりを意識できる「木の家づくり」がたくさん行われるようになってほしいものです。


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