10月8日から10日まで、宮城県石巻市で木の家ネットの第11期総会 宮城大会が開かれました。
3月の東日本大震災から7ヶ月。大震災の前の年の11月に神奈川県鎌倉市で行われた第10期総会 神奈川大会の時に次期総会候補地として宮城県石巻市から参加されていた佐々木文彦さん(ササキ設計)が手を挙げられました。年明けの1月に同じ宮城県の 徃見寿喜さん(樹音建築設計事務所)、遊佐茂樹さん(古遊工房 遊佐建築)も加えた宮城大会の実行委員会が発足し、佐々木実行委員長のもとで、着々と準備が進められていました。
そこに起きた未曾有の大震災。震災から数日間、三陸海岸に面した石巻市北上町十三浜にお住まいの佐々木さんと連絡がつかず、随分と心配しましたが、インターネットの安否確認サイトを通じて娘さんから連絡があり、ご家族がご無事であること、そして、自宅兼事務所が津波ですべて失われたこと、「相川子育てセンター」に避難所ができ、そこで集落の方たちと共同避難生活を送られていることを知りました。
その後、三陸に救援物資を届けに行ったメンバーが佐々木さんから「総会は予定どおりの日程で行います。復興に向かう石巻を見に来てください」というメッセージを預かってきたのでした。ご自身の生活の再建もままならない時に、総会の開催を宣言された佐々木さんの決意に、多くのメンバーが秋には三陸に行こう!と心に誓ったのでした。
メインの日程は10月9日の午後から。その前日の昼からは、隣県の岩手県陸前高田市の菅野照夫さんの案内で、平泉、気仙沼、陸前高田をまわるプレツアーも行われました。3日間の様子を、参加者の方のレポートをもとに、ご紹介いたします。
菅野さんの出迎えで始まったプレツアー
10月8日、憧れの奥州平泉に行きました。一ノ関駅では、世界遺産になったからでしょうか、駅長さんを始め、関係者の皆様、木の家ネットの運営委員のみなさんも出迎えてくださいました。その中に、3月に陸前高田で東日本大震災に遭われた菅野照夫さんの姿もありました。
三陸海岸のごく近くでありながら、少し高台に住まわれている菅野さんのお宅は、直接的には被災しなかったのですが、ご近所の多くが家も何もかも津波に流されて避難所生活を余儀なくされていました。私が前回菅野さんにお会いしたのは、5月。震災後のご活動で心身ともに疲れられたのでしょうか、その時は入院されていました。それ以降、どうされたか心配していましたが、久しぶりにお会いした菅野さんは、本来のお元気な姿を見せてくれました。菅野さんの元気溢れる運転で、最初の見学地である奥州街道有壁宿の有壁本陣へと向かいます。
気仙大工の技量を注ぎ込んだ 有壁本陣
旧有壁宿本陣は、元和五年(1619年)に奥州道中の宿駅として創設され、参勤交代制度が確立した後は、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が通行の際に宿泊した場所として知られています。気仙大工60人余が普請にあたったと伝えられ、屋根庇の下り船がいづくり、戸袋の細工など、気仙大工の技量を注ぎ込んだ仕事ぶりが随所に見られます。
二階建ての長屋門と御成門があり、その堂々とした姿に往時の栄華が窺えます。初めはご当主の方から「地震の被害でみっともなくなった姿を、とてもお見せできない」と断られてしまったのですが、菅野さんの交渉で陣内を見学させて戴き、お話を伺えることになりました。長屋門から宅内に入り、勝手にてお話を伺いました。
主屋の地震被害は土壁の隅部に亀裂が入る程度で済んだようですが、7棟ある土蔵の外壁の崩落は著しいものでした。建物の東西方向に揺れが加わり、初期剛性の高い土壁がまず崩れたものと思われます。外壁の土壁は防火上必要とされたもので、構造体としての意識はなく塗られていたのでしょうが、結果的に耐力要因として働いたようです。
外壁の剥落具合と比べると、蔵の内部は一部漆喰が剥落し貫が露出した箇所もあるものの、土壁の被害は軽微なものでした。しかし元通りに修復するための費用は、1億円を超えるだろう事でした。非常に厳しい状況ですが、何とか元の姿に戻って欲しいものです。
奥州藤原氏の栄華を今に伝える
中尊寺金色堂へ
次に達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂を経て、中尊寺の金色堂に向かいます。達谷窟は懸造りで、挿し肘木を応用した天秤梁の納め方に興味を抱きました。
金色堂は平面の1辺が三間ほどの小型の仏堂です。阿弥陀如来のいる極楽の燦然と輝く光を表現するために、堂の内外に金箔が貼られており、鉄筋コンクリート造の覆堂内のガラスケースに納められています。瓦が木製であることに驚きました。覆いが必要なのも頷けます。さすがに当時の中央政権の大和朝廷に対してその文化の高さを知らしめた建物だけあって、大変見応えのあるものでした。
金色堂の外に芭蕉の句碑がありました。「五月雨の 降りのこしてや 光堂」。あたりの建物が雨風で朽ちていく中で、この金色堂だけが昔のままに輝いている。まるで金色堂にだけは五月雨も降り残しているようではないか、という意味だそうです。
続いて旧覆堂も見学しました。奥州藤原氏初代藤原清衡が1124年に建設した当初は風雨にさらされていましたが、室町時代中頃に覆堂(おおいどう、さやどう)が建設されました。以来、現在の覆堂になるまでの約500年間、金色堂を雨風から守っていたのがこの旧覆堂で、現在の覆堂の建設時に、移築されたそうです。松尾芭蕉がこの地を訪れた際には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たのでしょう。隅木の支えに火打梁(隅ごおり)の上に束を立てるという、おもしろい構法が見られました。
和洋折衷の蔵と欅普請の邸宅
横屋酒造
平泉駅前の食堂では初めて「わんこそば」に大人気なくも興奮。その後、現在では「千厩 酒のくら交流施設」として公開されている、旧横屋酒造・佐藤家住宅を訪れました。明治から大正期にかけて建造され、材料、構造、意匠などがそれぞれに異なる25の蔵と横屋酒造の主人である佐藤家の主屋とが立ち並ぶ見事な建造物群です。和洋折衷の建物に気仙大工の技が光る、大正浪漫が漂う独特の空間を満喫しました。
佐藤家住宅は、欅普請の立派な邸宅です。二階の広間は、オオヒロマ24.5帖にヒロマ17.5帖の併せて42帖という大きさです。気仙大工の手法の特徴が、床板の張り方に見てとれます。天井板に使われている欅を見ると、白太部分の変色が見られ「欅は赤身使い」と言われる訳がわかります。
気仙大工の大工技術
構造技法:投掛け梁、火打梁造作技法:扇垂木、扇状の縁板張り、板長押
大工技術の修得・継承:「新撰 早引匠家雛形」
杣、木挽きとの協力体制
陸前高田で想う 気仙大工をとりまく職人文化
最後の訪問地の陸前高田は、高度な技術を誇る気仙大工の里であり、菅野さんの地元でもあります。5月に訪れた時と比べると瓦礫は随分片付けられていましたが、私は震災前の陸前高田を知りませんので、5月時点での陸前高田としか比べようがないのが残念です。静かな海でした。
普門寺の三重塔は高さ12.5mと小さいのですが、造りの精緻さに圧倒されます。初層は二軒繁垂木、二層には全面彫刻の板軒、三層には扇垂木を用いるという具合に、軒の意匠が、一層ずづ異なるのには驚かされました。
普門寺の三重塔について詳しくはこちら
気仙大工の技術の高さはもちろんですが、気仙はリアス式海岸のすぐそこまで山がせまり、気仙杉という立派な建築用材を産する土地でもあります。そのすぐ裏山に木を育て、適材適所を見きわめる目のある木挽棟梁がいて、「気仙かべ」と呼称される壁工がいてと、気仙大工をとりまく確かな腕をもった職人集団が存在し、豊かな職人文化が花開いていた層の厚みを実感させられます。彼らに仕事を依頼する人々の目の確かさは言わずもがなです。現代に暮らす私たちに『伝統に学ぶ』ことを改めて感じさせてくれるプレツアーでした。プレ企画をご立案戴いた菅野、渡辺両氏に深く感謝申し上げます。