登米高等尋常小学校校舎(現=教育資料館)
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第11期木の家ネット総会 宮城大会


10/9 集合〜高橋恒夫先生講演会(木の家ネット事務局 持留ヨハナエリザベート)

北は北海道から、南は九州から木の家ネットのメンバーが集合場所の「とよま観光物産センター」に続々と集まってきます。受付を済ませた者同士で連れ立って、北上川のほとりにある、佐々木さんの設計で山形から土蔵を移築再生した鰻屋さん「東海亭」に向かい、鰻重を突っつきながら、一年ぶりの再会に話を咲かせます。

受付には実行委員の遊佐茂樹さん(宮城県大崎市 古遊工房 (有)遊佐建築)。震災直後は、地元の協力でにぎった大量のおむすびを持って行って、配っていたそうです。

高橋恒夫教授の講演会
全国に名を轟かせる技能集団[気仙大工]について学ぶ

昼食を済ませた後は、来た道を引き返し、観光物産センターのホールで、東北工業大学の高橋恒夫教授の講演会を聴きました。

高橋先生は、気仙大工を始めとする「在方集住大工」の研究をされています。集住大工とは、高い技術を買われ、地元から離れた地域に出稼ぎに行く大工が、特定の地域にまとまって住んでいる、そのような大工集団を言います。「在方」と付くのは、城下町に職人が集まって住んでいる例とは違って、農村地域にその集住する集落があるためです。彼らは、彼らの生活圏外からも、仕事を頼まれ、その期待に応えるだけの技術を磨き、伝承してきた、技能集団でありました。

東北工業大学の高橋恒夫教授

気仙大工のふるさと
今泉の町に見る「大工による自治」

全国に名の聞こえた「気仙大工」。その出自が宮城県気仙沼市と勘違いされることが多いのですが、気仙沼には気仙大工はいません。旧南部藩の陸前高田市気仙町が、気仙大工のふるさとです。

高橋先生の講演会のビデオ(1時間6分)

高橋先生には、気仙でも大工の集住率の高い「今泉」という集落の様子を古い写真、図面、野村工芸制作の街並再現模型の写真などを、スクリーンに投影して見せていただきました。開口部を片寄せした、雁木づくりの小ぶりの町家が、メインストリートに妻面を見せて立ち並んでいます。指物は使わず、吊り束を入れているのが、独特のつくりです。

かつて、参勤交代の折に大人数の武士が今泉に宿を取った時に、どのように分宿するかを検討した図面が残っています。それを見ると、大工棟梁が個々の家の間取りまで把握していることが分かり、大工棟梁が村長として自治を司る「大工村」とでも言うべき暮らし方をしていたのではないかということが窺い知れるとのお話を聴きました。

町家が整然と立ち並ぶ 今泉の模型

震災を経てあらたに思う
「ひと昔前を手本に」

ところが、この今泉の集落も三陸海岸から目と鼻の先に位置しており、東日本大震災で津波の被害に見舞われ、壊滅的な状況となってしまいました。被災前と被災後の写真を見せていただき、その生々しさを実感させれらました。集落の端はかつて、気仙大工の技術が集約された「大木守屋敷」という村長(むらおさ)の館がありました。かつてこの館に使われていた材が、選り分けられ、一カ所に集められていました。気仙大工のふるさとに、その技術の結晶である建物が再建されることについての希望も語られました。

先生は、集住大工のお話に入る前に「震災で分かったことは2つあります。ひとつは、電気、水道、電話などといった社会的インフラがいかに脆弱なものであるか、国に頼っていればなんとか生きて行けるというのは間違いだということです。これからは地域で自立していくような形でしか生き延びられません。そのために『ひと昔前』を手本にしましょう」とおっしゃっていたのが、翌日に佐々木さんに案内していただいた避難所での自立した生活と結びつき、総会全体を通してとても印象的な言葉として心に残りました。

(木の家ネット事務局 持留ヨハナエリザベート)
10/9 登米(とよま)町中心部散策(一峯建築設計 池山琢馬)

「みやぎの明治村」登米(とよま)町

講演会が終わると、全体が数グループに分かれ、地元のガイドさんの案内で旧登米(とよま)町界隈の探索にでかけました。登米町は北上川を利用した米の舟運で栄えた町です。「みやぎの明治村」と呼ばれ、旧登米高等学校尋常小学校校舎(国指定重要文化財)、水沢県庁記念館(市指定重要文化財)、旧登米警察庁舎(県指定重要文化財)、武家屋敷「春蘭亭」など、徒歩圏内に江戸期から明治期にかけての建造物が点在し、公開されています。とよま振興公社を通じて、地元のガイドさんがこれらのスポットを案内するサービスもあり、歴史的な建物をめぐる散策を楽しむには、とても魅力的な町です。

登米観光公社のガイドさん

登米町の中心部は、津波被害に遭った沿岸部から奥に入っているため、津波の被害はないのですが、地震そのものの爪痕が感じられるところは局所的に点在していました。大破はしていないものの壁が一部崩れているところ、割れたガラスがそのままになっていたりするところがそこかしこに見られました。車ではつい見過ごしてしまいそうですが、歩いてみてはじめて、やはり相当な揺れがあったのだと実感しました。

電灯のない昔に想いを馳せる
登米高等尋常小学校校舎

観光物産センターの西隣にある国の重要文化財「登米高等尋常小学校校舎(現=教育資料館)」もその例にもれず、当時からの薄いガラスの多くが割れ落ちていたり、壁の藁がむき出しになっている所もありました。明治20年に完成したこの校舎は、建築家山添喜三郎の設計によるものです。喜三郎は「政府御雇い外国人」のワグネルに従って洋行、欧米の建築について学んで帰国し、仙台の紡績工場の建築工事に携わった後、この校舎の設計を手がけました。棟梁、脇棟梁を勤めたのは、気仙大工。洋風建築にも積極的に取り組んだことが分かります。

この校舎のレイアウトに、特徴があります。2階建ての校舎全体がコの字状に配置されており、コの字の先端の2カ所に児童玄関が、2階の中央に校長室があり、その前が張り出すようにベランダになっています。そこから全教室が見渡せるので、雨の日には、各教室の廊下(軒下)に生徒が出て、校長先生が訓話をするのを聞いたのだそうです。

(左)登米高等尋常小学校校舎(現=教育資料館)の西半分。白いベランダの2階奥に校長室 (右)当時の授業の様子を再現した教室も

「この壁の色の呼び方はわかりますか?」とガイドさんが、教室の中で皆に問いかけました。「灰色?」と応えると、答えは「ねずみ色」とのこと。このねずみ色という壁の色が、電気照明のない当時の小学校の教室においては、朝日や夕日に反射してもまぶしすぎず、かつ暗すぎず、目に優しいとして推奨されたのだと言います。今でこそ学校では昼までも電気照明を点けるのが当たり前になっていますが、電灯のなかった時代に子どもたちが学んでいた校舎の光を体験することができました。

古い建物を保存するということが、過去の建築を残すというだけでなく、便利すぎる現代に対して、その時代のなんらかの知恵を与え続けるという意味もあるのだなと、思えました。

地元の材料でつくるということ

旧小学校の校門(通称赤門)を後にして、旧登米警察庁舎へ。道中、倒れたまま放置された門、塀の周りに板状の「石」が散乱していました。このあたり特産の「玄昌石(げんしょうせき)」、いわゆる「天然スレート」です。薄く加工し、屋根材として利用されてきたようです。

遠くからわざわざ取り寄せるのでなく、ごく近くにある、地元の素材を工夫して用いている、それこそが「地域性」ということなのだなと思いました。屋根材についていえば、瓦屋根が全国的に広まったのは、大分時代が下ってからのことであり、それまでは杉木端、茅葺きなどというように、各地で調達しやすい材料で施工されてきたのです

(左)地震で落ちたスレート葺きの屋根 (右)スレート葺きの塀も

初めて見る「天然スレート」に建築仲間たちも、興味津々。足をとめ、じっくりと観察していました。今回の総会では時間がなかったので回れなかったのですが、石巻市には雄勝町という天然スレートの一大産地があるのだそうです。

1968年まで「登米警察署庁舎」として使われてきたこの建物は、現在では「警察資料館」になっており、牢屋、取り調べ室など、明治時代の「警察」の様子が再現されており、時間さえあればゆっくり見学したいところでした。

(左)登米警察署庁舎 正面 (右)庁舎の脇にあった案内板の屋根もスレート葺き

古い建築物を保存する町は
文化を継承する町

「古いからよい」と無条件に言えるわけではありませんが、現代とは違った価値観をあらわしている古い建物から学べるものは多いと思います。全国各地で、古い建物がどんどん解体されていく中、それらを壊さずに保存し続けてきたこの町の姿勢に、感銘を受けました。

「建築基準法以前の建物だから」耐震性が低いのだとはいえない、そういった古い建物でもしっかりしたものはそれなりの耐震性があるのです。「古い建物でもしっかりしたもの」に学ぶこともたくさんあるのではないでしょうか。

また、建物を保存するということは、建物というハード面だけでなく、体験できる形で文化が継承されているということでもあるのだと思います。地方都市の中心部でも、目先の利益を優先した無秩序な再開発が多い中、この「登米」が町ごと「みやぎの明治村」を維持し続けたことに、大きな敬意を表します。これからの町づくりを考えるのにいいヒントがいっぱい詰まっているなと、ぼんやり考えながら、観光物産センターに戻りました。

(一峯建築設計 池山琢馬)

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登米町には「武者隠し」といって、戦の時に身を隠して敵を迎え撃つため、通りに対して斜めに構えた建物が数多くある。
通りの反対側は逆向きの構えになっいる。