宴会の最後の一本締め。音頭をとっているのは樹音建築設計事務所の往見寿喜さん。
1 2 3 4

第11期木の家ネット総会 宮城大会


10/9 追分温泉での宴会(樹音建築設計事務所 徃見寿喜)

日暮れの峠道を追分温泉に向かう

東北の10月始めといえば、もうかなり日が暮れるのが早く、散策を終えた一行が集合場所に戻る頃にはかなり日も傾いていました。総勢80名が石巻のバス会社でチャーターしたバスと遠方から来た「愛知」「札幌」「三重」「山梨」など、さまざまなナンバーの自家用車に分乗し、追分温泉に向かいました。

追分温泉は登米市と石巻市との間に横たわる翁倉山と高津森山の間の峠の石巻側にある一軒宿です。車もすれ違えない、細く蛇行した峠道を走るうちに、日がとっぷりと暮れ、宿に到着するまでには辺りは真っ暗になっていました。心細くなりかけた頃に、追分温泉の宿灯りがポッと現れました。

追分温泉の廊下に貼ってあった、全国からの励ましのお便り。

避難所や支援者宿泊所になった追分温泉

宿に着くと、一部の参加者は思いもよらぬ部屋割を知らされてしまいます。追分温泉に宿泊できるのは55名ほどで、後の20名ほどは、宴会後バスで登米から来た道を戻り、日中に見学をした登米市内の「望遠閣」に泊まることになるのです。望遠閣泊となった方たちは、宴会前に温泉に入れても、浴衣に着替えてのんびりというわけにはいかず、申し訳ないことでした。ここであらためて、お詫びを申し上げます。

追分温泉での受付。ここで宿泊先を知らされる。

ところで、今回の総会準備でもっとも苦労したのは、宿の手配でした。震災前には、80名で追分温泉に予約ができていたのですが、震災後、追分温泉が被災者受け入れの宿となったために、総会で宿泊できるかどうかという見通し自体がつかなくなってしまったのです。登米市の何箇所かでの分宿も検討したのですが、どこでも当然、被災者や被災地支援者が優先となるため、総会まで1ヶ月を切る頃になっても、80名の宿泊場所確保には程遠く、途方に暮れました。

それでも、9月初旬に追分温泉でなんとか50名程は宿泊できるということになり、一安心。あとの20名の宿泊場所が登米の「望遠閣」に決まったのは、総会まであと数日という時で、本当にひやりとする思いをしました。みなさんの宿がどうにか確保できてよかったです。(編集注:幹事の皆さん、本当にお疲れさまでした)

実は、この総会の夜は、追分温泉が震災後、一般のお客を受け入れる初の夜となったのです。宴会の始めにご主人の横山さんからご挨拶がありました。「大震災の日以来、ずっと避難所のオヤジをしてきました。もう宿をやめようかと思った時もありました。けれど、今晩はひさしぶりに、温泉宿の主人として、宴会料理に腕を奮わせていただき、これからも宿を続けていこうと気持ちを新たにしました」大震災から半年間、被災者・被災地支援者の宿泊所を切り盛りしてこられたご主人の想いが伝わってきて、胸が熱くなりました。

追分温泉のご主人、横山さん。地元でバンドを組んでいて、夜は仲間たちと音楽三昧。総会の夜も、木の家ネットのメンバーがギャラリーとなり、人垣ができた。

宴会と恒例の分科会

大広間にて佐々木実行委員長の挨拶、加藤代表の挨拶、高橋教授の乾杯の発声により宴会が始まりました。

宴会料理も当初の予定では、宿泊人数50名分しか出せないということでしたが、追分温泉の温泉宿としての再スタートへの決意の表れか、ずいぶん気を張って何とか全員分出していただくことができ、感謝しています。海の幸、山の幸を美味しくいただきながら、宴会は和やかに終了しました。

(樹音建築設計事務所 徃見寿喜)
10/9 分科会〜10/10 相川子育てセンターでの総会とバスツアー(木の家ネット事務局 持留ヨハナエリザベート)

総会恒例の分科会

宴会の後は、登米に戻る20名ほどのみなさんのバスを見送り、総会恒例の分科会です。テーマ別の部屋に分かれ、車座で、お酒やおつまみも入り、夜を徹して語り合います。

追分温泉での分科会

追分温泉組は、ひとつの部屋で、午前中に講演を聴いた高橋恒夫先生を囲んで、震災後に先生が東北各地を歩いて見てこられた被災状況の写真を見せていただきました。もうひとつの部屋では、第11期に更新する時にひとりひとりにアンケートを寄せていただいた「原発についてどう思うか」の集計結果をもとに話し合いました。登米では、全体の人数が少なかったので、全員が原発についてのテーマで語り合いました。

大型バスで総会会場へ

2日目の集合場所となった熊谷産業の作業場。壁面が茅で覆われている。

総会2日目も快晴に恵まれました。追分温泉組は山を下り、登米・望遠閣組はバスに揺られ、地元の茅葺きやスレート等を扱う屋根会社・熊谷産業さんの駐車場で再度、全員集合し、2台の大型バスに分乗し、総会を実施する相川子育て支援センターに向かいます。

バスは北上川に沿って下流へと走ります。海から北上川の河口を溯上するにつれて、20m以上もの高さにふくれあがった津波が襲った場所を通りました。震災から半年過ぎ、道路は通れるようになっているものの、その両側には基礎と土台をわずかに残して跡形もなくなった家の敷地、塩水で真っ赤に立ち枯れた林、学校など、津波の脅威をみせつけられました。

地震にも耐えた釣石神社の巨石
爆撃跡のような北上総合支所

「落ちそうで落ちないの巨石があることでみんなが合格祈願をする釣石神社の釣石は、今回の地震にも耐えました」佐々木さんが、76戸のうち73戸が津波で流されたという集落のすぐ後ろにある丘を指差して教えてくださいました。
釣石について詳しくはこちら

その後、報道でよく目にした石巻市役所北上総合支所のすぐ脇を通過しました。地震直後、RC造+大断面木構造の混構造2階建ての庁舎の2階に避難した住民の多くが犠牲になったところです。すべてが流され、そこにとどまるしかない基礎だけが残っている、爆撃にあった跡かのような様相を呈していました。
北上総合支所の被害状況について詳しくはこちら

バスの車窓から見た、北上総合支所。

北上川河口付近の被害状況

すぐ隣にある吉浜小学校には3階まで津波が押し寄せたそうです。時計が地震のあった2時46分のままで停まっていました。遊具や校舎の中にあったものはすべて水に持って行かれ、窓もなく壁も部分的に崩れていました。窓や壁があったはずのところに水に運ばれた無数の木材や突き刺さり、瓦礫や木材が堆積しています。「これでも大分、片付いたのですよ」と佐々木さんがおっしゃいました。被災当時の様子は、想像もつきません。

地震当初、学校にいた子どもたちと先生方は、3階の上にある階段の塔屋に上って辛うじて助かったのだそうです。校舎には、吉浜小の子どもたちは、同じく校舎を失った相川小学校の子どもたちと共に、校舎が残った橋浦小学校に通っています。
北上川河口付近の被害状況について詳しくはこちら

北上川の河口にかかる新北上大橋は、津波で壊され、大震災から半年以上以上経ってなお、通行はできないので、対岸の雄勝方面に行くには10キロほど上流の飯野川橋まで戻らなければなりません。(2011年11月末には、新北上大橋の修理が終わり、開通したそうです)

大橋のすぐ向こうには、避難方法が具体的に定まっていなかったために、地震が発生して津波が到達するまでの時間が30分ほどありながらも、児童・教職員の7割が津波の犠牲になった大川小学校跡があります。バスの中から川向こうを臨み、「これから」があったはずの子どもたちの魂の冥福を祈り、手を合わせました。

被災地の状況を目の当たりにして、
何を受け取って帰るのか

車窓からの風景を見るにつけ、何でもなかったところと、ごっそり津波でもっていかれたところがいかに紙一重であったかと驚かされます。基礎と土台しか残っていない家のお隣がそのままに残っていたり、集落のあるラインから下は、そこに集落があった痕跡がわずかに見てとれるだけだったり・・。

Googleの「未来へのキオク」プロジェクトが記録していた、佐々木さんの自宅兼事務所(左奥の大きな建物)付近の写真。コンクリートでできた1階部分だけを残し、木造の2・3階が完全に無くなってしまった。

「赤く立ち枯れた木があるところまでは、水が押し寄せたのです」と佐々木さんが教えてくださいました。新聞やテレビ、インターネットで断片的に知っていたつもりになっていたことが、初めて実際の場所に起きたこととしてとらえられました。

しかもそれが半年後の「かなり片付いた状態」であると知り、想像を越える被害の大きさが、重く迫ってきます。ご自身も被災し、それをすべて身をもって体験した上で、私たちを案内してくださっている佐々木さんが「被災地を見にきてください」とおっしゃった思いに対して、私たちひとりひとりは何を受け取り、持ち帰り、これからの仕事に活かしていけるのでしょうか。

大きなインフラに頼りすぎず、地域で自立して生きて行く力とは?多くのガレキを生み出さないような建築のあり方とは? コミュニティーを再生する復興とは? 避けがたい自然災害に人はどう向き合い、備えればよいのか? この震災から何を学び、どこへ向かうのか? 今回の総会に出席したひとりひとりの心に課題や、発見や、確信など、何かしらを確実に心に刻んだ、大切な総会になったと思います。

(木の家ネット事務局 持留ヨハナエリザベート)

1 2 3 4
津波の力で真横に曲げられてしまった、佐々木邸のすぐそばの街灯。