白浜復興住宅の近くで、記念撮影。
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第11期木の家ネット総会 宮城大会


10/10 総会〜白浜復興住宅(木の家ネット事務局 持留ヨハナエリザベート)

避難所として使われた
山の上の相川子育てセンター

海岸部から急坂をあがった山の上に、第11期総会を開催する相川子育てセンターがあります。相川子育てセンターは、以前に相川中学校のあった場所に新築し、平成23年度からのオープンする予定だった幼稚園兼子育て支援センターで、落成式を迎える直前に震災にあったそうです。本来の目的に用いる前に、佐々木さんの住む集落をはじめ、沿岸部の7つの集落の避難所として使われることになりました。

相川子育て支援センター(中央下)と「集団地」の集落。GoogleMapより

まずびっくりしたのは、この山の上にあるセンター付近一帯が20軒ほどの密集した集落になっていることでした。昭和8年の大津波で被災した集落が、山の上に集団移転したところで「集団地」と呼ばれているそうです。ライフラインが寸断された状態の中、救援物資が届くまでの間、家にあるありったけのもので避難所に集まった人たちの炊き出しを担ったのは、集団地の方たちだったそうです。

分科会報告、第11期総会と
車座座談会「津波で被災するということ」

9時に総会が始まりました。前夜の分科会の発表に引き続き、第10期の会計報告、サイトの現状、「削ろう会」出展など埼玉メンバーの活動や伝統的構法の性能検証実験および設計法構築のための検討委員会の活動報告などが駆け足で行われました。また、職人がつくる木の家ネットとして何らかの形で「原発はいらない」という意思表明をしていくことが確認されました。

意思表明に賛同する会員

総会に引き続き、座談会では避難所の鈴木所長さんと佐々木さんとのお話をうかがいました。「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉がありますが、津波に何度も見舞われていながら、二世代、三世代と経てしまうと「地震があったら、津波を警戒し、高い所に逃げよ」という昔の人の言い伝えはどうしても忘れられがちです。

それでも、相川地域には津波のおそろしさ、高台に避難することの大切さが語り継がれていました。「津波に備えて集落ごとに避難訓練を実施していたので、集落にいた人たちはほとんど助かっている」とのことでした。むしろ、勤務先や出かけた先で亡くなった方が多かったそうです。

石巻と同じ三陸海岸沿いの気仙沼大島に伝わる「みちびき地蔵」という民話をご紹介します。

気仙沼大島の山の中に、この世を去る人をあの世に導くといわれる「みちびき地蔵」というお地蔵さまがありました。ある女の人が夜の集まりがあってみちびき地蔵のそばを通ると、不思議なことに、元気で船に乗っている若者、おばあさん、子どもを抱いた若いお母さんなど、無数の人の姿が浮かび上がって見えるのです。「なぜ、こんなに大勢の人が…」といぶかしく思いながら、家路につきました。 その翌朝、海に海藻を取りにいくと、やたらとよくとれる。どうしたことかと思っていると、大きな地震が起き、その後に大津波がやってきました。前の晩からいやな予感がしていたその女の人は、子どもの手を引いて、すぐに山の方に逃げました。前夜、みちびき地蔵で姿を見かけた人たちはことごとく津波に吞み込まれて亡くなったのだそうです。

一生に一度来るか来ないか、という頻度でしか遭遇しない津波のおそろしさは、年を経るごとに薄らいでしまいがちです。しかし、このように民話として語り継がれることで、普段の暮らしの中で忘れがちなことを繰り返し思い出す、そのことで、津波が来た時にどうしたらよいかつねに意識することができるようになります。民話や歌などを通して先人の体験を語り継ぐことは、その土地で生きていくために知っておかなければならないことを伝えるための知恵なのではないでしょうか。

集落の力でインフラを整備

所長さんからは150名以上の避難者が集まって住むにあたって最初に取り組んだ課題がトイレの設置であったこと、水の供給のために沢水を引いたこと、集落ごとにパーティションはもうけず緩やかに住み分けをしたことなど、避難所内での日常を成り立たせる苦労のひとつひとつについて、具体的なお話を聴きました。

また、道路アクセスが寸断された相川子育てセンターでは、インフラの復旧がほとんど不可能という厳しい状況に置かれました。そうした中で、沢水の利用、薪での煮炊き、太陽光発電等、ボランティアの人々の助けも得ながらも、集落のメンバーが中心となり、かなり自立した生活が築かれていたのが、この避難所の大きな特徴です。集落の底力、結いの力、自治の力の結晶です。そうした生活の一端が、朝日新聞にも掲載されました。

朝日新聞に2011年4月11日に掲載された記事

ここで簡単に報告するだけではもったいない内容のお話でしたので、あらためて取材して、東日本大震災後一周年の特集としてご紹介したいと思います。

鈴木さん(相川子育てセンター避難所 元所長)と佐々木さんによる「座談会 津波で被災するということ」のビデオ(27分)

仮設でない復興住宅

総会を後にし、高台に建設中の白浜復興住宅を見学しました。今の仮設住宅は、建設に一戸400万円かかり、2年後には取り壊さなくてはなりません。しかも、その取り壊しにも100万円はかかるのだそうです。であれば、はじめから仮設ではなく、ずっと住み続けられる家を建てた方が良いのでは?というのが「復興住宅」のコンセプトです。

白浜復興住宅

バスに乗り換えるのに自家用車を停めさせていただいていた熊谷産業の熊谷秋雄さんが工学院大学の後藤研究室に相談をもちかけ、この復興住宅プロジェクトがスタート。海の見える高台に熊谷産業が土地を取得、そこに後藤研究室の設計と工学院大学の125周年事業としての寄付金で建設しました。入居者が月2万円程度の家賃を払うことで、将来的には持家になります。「仮設住宅でない復興住宅」の先駆的事例といえるこのプロジェクトは、行政ではなく、民間の出資で成り立っています。

熊谷さんが白浜復興住宅プロジェクトを語る

プレスリリースには「国の補助で地方自治体が今後建設する災害公営住宅のモデルとなるもので、災害公営住宅として実現した場合に、住まい手の負担も少なく、自治体にとっても負担部分が家賃収入として比較的に短い期間で回収可能な、他に類をみない住宅建設プロジェクト」と、記されています。行政に頼るのでなく、民間の自主的な動きが行政を触発していく、そのようにして物事が動いていくのだということを予感させてくれるプロジェクトです。

高台からは海が一望できます。11月23日には初回入居分の入村式が行われ「海の見えるところに住んでいたい」と、白浜の漁師のご家族が新生活をスタートされたそうです。景色がいいので、昼食は屋外で追分温泉特製のお弁当をいただき、バスツアーは終了しました。

(木の家ネット事務局 持留ヨハナエリザベート)
10/9 一次解散〜天然スレート集落、石巻中心部訪問(樹音建築設計事務所 徃見寿喜)

熊谷産業に戻り、自家用車と仙台駅や空港に向かう貸切バスに分乗し、かつて気仙大工が腕を奮った古民家を佐々木さんの設計で現地改修した遠藤邸に向かいました。建て主の遠藤さんの手料理がところ狭しと並べられ、盛大なもてなしを受けました。予定の時間をはるかに超え、ずいぶんと長居をすることに・・・。途中で一次解散の時間となり、飛行機、遠方の方は帰路につきました。これだけの大人数を快く迎えてくださった建主さんと佐々木さんに感謝です。

遠藤邸外観(左)と居間(右)。心のこもったおもてなしに、重ねてお礼を申し上げます。

その後、天然スレート葺きの家が多く残る北境、南境を見学し、石巻市内の石ノ森萬画館の前にある中瀬公園の中洲の、国内最古の木造教会建築である旧石巻ハリストス教会の前で、2次解散となりました。解散後、石巻市内の被災状況を歩いて見たり、地元宮城の建築家や大学関係者、石巻の商店街の皆さんで石巻の未来に向けたまちづくりを考える「石巻まちカフェ」を訪れてお話を伺ったりしました。 まちカフェについて詳しくはこちら

北境の民家 (左)妻面に六角形のスレートが使われている (右)スレートでこのような複雑な形状の屋根もつくれる。

そして、フルコース組が仙台駅にたどり着いたのは、もうすっかり暗くなってから。仙台市内での実行委員会スタッフ打ち上げに県外メンバーの参加も数名あり、もりだくさんだった一日をお酒を酌み交わして終えたのでありました。みなさん、お疲れさまでした!

石巻の2次解散で、挨拶をする佐々木文彦さん
(樹音建築設計事務所 徃見寿喜)

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旧石巻ハリストス教会。津波は屋根の上にある十字架付近まで達したそうですが、周りの大半の建物が流失したなか、
奇跡的に原型をとどめていました。教育委員会は何らかの形で後世に残して行く方針だそうです。