独立電源=オフグリッドの家
なぜ「電力会社と契約しない家」に?
三重県四日市市在住の黒田誉喜さんは、自動車販売店「黒田モーター商会」の経営者であり、詩人でもあります。
2014年の春、木の家ネットの池山琢馬さんが主宰する一峯建築の施工で、黒田さんの自宅が竣工しました。木組み土壁の家で、庭には、石場建てのゲストハウスもあります。
太陽光パネルがたくさん載っています。最近、こういう光景はよく見かけますね。しかし、そのほとんどは、電力会社の送電網とつながっていて、日中は太陽光発電を使いながら余剰分は電力会社に売り、夜間の足りない分は電力会社から買う「売買電」をしている家でしょう。
しかし、黒田さんの家はそうではありません。そもそも電力会社と契約をせず、太陽光パネルで発電してバッテリーに充電しておいた電気だけで自宅で使う電力を自給している「独立電源=オフグリッド」の家なのです。
木の家ネットでは、東日本大震災の翌年2012年に「原発はいりません」宣言をし、「原発に頼らない家づくり&暮らし方」を発信し続けてきました。提案をまとめるために会員間で意見集約をしていく中で、池山さんから、この「オフグリッドの家づくり」の計画について、聞いていました。
住まい手の黒田さんと、つくり手の池山さんとに、工事中(2013年4月)と竣工後(2014年9月)の2回にわたって、聞かせていただいたお話をもとに、今号で黒田さん、機会をあらためて池山さんのお話を、まとめます。
非常時にも家族を守りたい
オフグリッドの家づくりを思い立ったのはいつ頃ですか?
黒田さん 土地は東日本大震災より前に購入していて「いつか家を建てよう」と、ずっと建ててくれるいい大工さんがいないかと、探していたんです。そこへ震災と原発事故が起き、放射能が拡散し・・と、次々といろいろなことが起きていく中で、いろいろ思うところがありました。そんなタイミングで池山さんと出逢い、この「電力会社と契約しない」オフグリッドの家づくりが実現しました。
それ以前にもチェルノブイリ事故はあったし、高校生の頃から「原発って絶対安全って言うけれど、ほんとかなあ」と、疑問には思ってはいたんです。しかし、実際に原発事故を体験してみて、電気の供給が止まれば生活が成りたたなくなること、電気を作るために動いている原発が、事故で放射能を撒き散らして、いのちを脅かすことを、思い知らされました。
僕には妻と3人の子どもがいますが、「この非常時に、僕は家族を守れていない」という現実を突きつけられ、往復ビンタを食らった気持ちでしたね。
震災後は、どうされていました?
黒田さん 電力会社でつくる電気がなければ、生活がまわらない。かといって、それに頼れば、いのちを脅かすものを容認することになる。僕らの生活って、そんなに脆いものだったのか?
しかも、信じられないことに、そこまでの重大な事故が起きても国のエネルギー政策は変わらず、原発は再稼働するというし、多くの人は「原発はイヤだけれど、電気がないと困るからしょうがない」と言う。
被災地に行こうかと思ったり、いや、足元を固めなきゃと思い直してみたり、津市での浜岡原発稼働反対のデモに参加したり・・。いろいろと動いていく中で「僕は詩人なんだから、自分の思いを作品に書こう。ライブやイベントで声を出して訴えよう!」と決め、表現活動を始めました。
「原発に頼らない生き方をしたい」僕のメッセージは、一部の友人には共感される。けれど「だって、あなたも電気使ってるんでしょう?」と言われるし「便利な生活してるんだから、しかたないんじゃない?」という全体のムードは変わらない。
池山さんと出会ったのは、その頃とうかがってます。
黒田さん インドに旅行していた頃に出会った友人が、左官の小山将さんと仲がよくて、小山さん達に誘われて池山さんの事務所に行ったのが始まりです。
黒田さん 当時の政権や電力会社に対し不満を言い合っていた時に、僕が思い余って「池山さん、僕、もう電力会社から電気を買いたくないので、電力を自給できる家に住みたいです!」と冗談半分、本気半分で言ったら、その言葉を池山さんが拾ってくれて。
「黒田さん、実は私も現場での大工仕事を電力会社からの仮設電源を引かずにできるようになりたいと思っているんです。今後、5年くらいの計画で、電力を自給できる家のモデルハウス的なものを自費で作りたいと思ってました!」という言葉が返ってきて、意気投合。
そんな池山さんの思想、技術に感銘を受け、家づくりを依頼するのは「この人しかいない!」と思いました。「やり方も何もわからないけれど、とにかく『電力会社と契約しない家』を目指そう!」と、家づくりがスタートしました。
大きなインフラに頼らずに、生きる
家族を守れる生活
黒田さん 原子力や化石燃料に頼り、発電所で作られて、遠くからはるばる運ばれてくるエネルギーは使わず、自分の家でつくるエネルギーで生活をまかなう。そうすれば非常時だって、家族や友人たちを守れるでしょう?
東南海地震が起きて、ライフラインが断たれても、電気は自分のところで発電すれば大丈夫。水の確保方法としては、井戸の掘削を考えています。お風呂も炊事も、普段はプロパンであっても、給湯は薪ボイラー兼用にし、外かまども作って薪とガスとの「ハイブリッド」にしておけばいい。
非常時にも電気が使えて、お風呂にも入れて、ご飯が作れたら、近所の人にも来てもらえるし、みんなにも「これで、いいんじゃん!」って思ってもらえる。身をもって示せる。そう思ったんです。
急務なのは、田畑作りかな。被害範囲が広域に及ぶ東南海地震では、救援物資の輸送が遅れることも専門家により指摘されているため、食料の確保も必要ですからね。「自給ライフ」に向けてやることは、家づくり以外にもいろいろあります!
池山さんは、黒田さんの家をどんな家として作ったんですか?
池山さん 構造としては、蔵のようなつくりをした、5人家族にしてはコンパクトな家です。周囲にぐるりと柱を立て、土壁を塗り、地棟をかけています。
屋根も、蔵づくり風に、置屋根をのせた二重屋根にしました。置屋根にさらに太陽光パネルが載っていて、二重に風が通り、屋根からの暑さが土壁に蓄熱するのを、大分和らげてくれます。
池山さん 家の内部は基本的に2階建てですが、風呂トイレ部分が一段下がっていて、そこが地下室風になっています。冬は吹き抜け部分に置いた薪ストーブが家全体をあたためます。無垢材と土壁の調湿性を活用し、風通しをよくしたつくりです。エネルギーをそんなに使わなくても、夏、ほどほどに涼しく、冬、ほどほどにあたたかい家になっているはずです。
敷地の関係で、メインの生活スペースから一段下がったところに風呂とトイレをつくりましたが、ここは外からもアクセスできるようになっていて、後から外に作った石場建てのゲストハウスに人が泊まったり、集まったりする場合でも使いやすくなっています。非常時に、この動線は便利だと思いますよ。
現場の棟梁は一峯建築の丹羽怜之が担当。彼はその後に独立して、なんと今はアメリカでお寺づくりに関わっています。数ヶ月後に帰国予定。図面作成や建築確認申請では、木の家ネットの仲間である、スタジオA.I.Aの伊藤淳さんにお世話になりました。
人と人とのつながりで実現した家づくり
家づくりのプロセスも楽しまれていたようですね?
黒田さん 池山さんは「大工は施主の家づくりを手伝う立場。だから、施主はできることをやってね」というスタンスで、さまざまな作業を教えてくれ、やらせてくれました。
まずは、敷地に生えていた竹を、土壁の下地を編む「えつり」作業に使うために、鉈をふるって伐り、専用の鋳物の道具で割る。それが最初の作業でした。竹薮を伐ることで、敷地に日が当たるようになり、かつ、家づくりの材料にもなるという一石二鳥。すばらしいことです。
黒田さん ほかにも、材木の柿渋塗り、壁土を練る、竹小舞を編む「えつり」作業、土壁塗りなどをしました。あとから外に作った石場建ての小屋では、地面を固める「ヨイトマケ」や、土間部分を「三和土(たたき)」にするなど、多くの作業を、家族や友人を巻き込んでの「結い」として、楽しい共同作業としてやりました。
黒田さん さまざまな作業がありましたが、クライマックスはなんといっても、家の構造が立ち上がる建前。もちろん、ここは大工さんたちが主役ですが、まわりの私たちも揃いのTシャツを着て、棟が上がったあとに地棟にメッセージを書いたり、感動的な一日でした。
黒田さん そのたびに、ご飯をいっしょに食べて。工事期間中は、なんだかずっとイベントが続いている「お祭り」のような感じでしたね。
電力自給もそうですが、そうした「結い」作業を通して、人とのつながりがより強まったことも、大きなインフラに頼らないで生きていけるという確信を強めてくれました。これは大きな経験です。