「結い」で伝統構法を学ぶ
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大工・高橋俊和さん(都幾川木建):初原の営みに魅せられて


素材集めから納品まで
自分の手でやれる仕事をしたくて家具職人に

高橋さんは、どうして木の家づくりを始められたのですか?

私は、家具職人だったんですよ、元は。たたきあげの大工修業してきたのでも、設計を学んでから大工の道に入ったのでもないんです。高校時代、美術全集で見た奈良の興福寺の「天燈鬼」「竜燈鬼」に憧れて、これを彫ってみたいと栂の木を拾ってきて挑戦してみたことがありました。(高橋さんのつくり手ページに「天燈鬼」「竜燈鬼」の写真が出ていますのでご覧ください)それが木彫への入り口でしたね。挑戦したものの、到底できず、その時の口惜しさが今の私の原動力になっているかもしれませんね。

大学は最終的に教師になりたくて社会福祉学科に行きました。大学時代にしたものづくりといえば、バスケットボール部で部室の棚を作って仲間たちに好評だったことがあったぐらいかな。夏休みの暑い日中、ふらふらになりながら鴨川べりを3時間ほど歩いて材木を運んで作ったことが記憶に残っています。

大学は二つ行きましたが、どちらも中退、あわせて3年間の大学生活でした。在学中に、もう亡くなられていますが宇井純さんという方がやっていた東京の自主講座運動に心をひかれて、退学する直前まで職業は「なにか等身大のものを、受注から、素材集めから納品するまで、全部自分でやれることをしたい」と、漠然と思っていました。

「何をしたらいいのかな」と考えていたちょうどその時、親が見ていたテレビで職業訓練校では木工を教えてくれるというようなレポートをやってたのを小耳にはさみました。そのほんのわずかの情報を手がかりに、翌日、本屋に行って調べ、早速、訓練校に行くことを決心しました。修了後、徒弟制の残る家具工場、木彫家具の林二郎さんの木工房、障害者のための生活支援具をつくる工房を経て、埼玉県の越生町の古民家を作業場に、家具職人として独立開業しました。

「棟梁に学ぶ家」グループに加わってから
家づくりの道へ

家具から大工へと転換したきっかけは何でしたか?

家具をやりはじめた頃、自主講座運動を通じて三宅島での「生闘學舎」(1980年建築学会作品賞受賞)の活動を知ったんです。素人ばかりのセルフビルドで、5000本もの枕木を使って家をつくったというのです。その記録本『生闘学舎・〔チャリ〕建設記録—敗者復活戦 』を読んでいたら「チャレンジ」という言葉がたくさん出て来てね。「チャレンジって何だろう・・」ということがどうしても知りたくて、生闘学舎に直接電話してみたんです。

そしたら建設記録の著者がちょうど電話口に出て「そうなのよね〜、今、チャレンジする人がいなくなってるのよね。ところで、こんど、生闘學舎を指導してくれた三宅島の棟梁に、こんどは伝統的な家づくりを学んで記録するプロジェクトを始めたんだけれど、高橋君、来てやってみる気、ない?」と誘われてしまったんです。

それは、生闘学舎を建設する時にその指導をしてくれた棟梁に学んで、三宅島の昔ながらの民家をまるごとつくり、その工程を記録するというプロジェクトでした。その時点で私は家具を作っていましたが建築については素人でしたし、構造的にどういう家を建てようとしているのかも知りませんでした。でも、五分の一の模型づくりの段階だったので、当時家具をやってましたし「模型だったら小さいからできるだろう」ということで、参加することにしました。

それが伝統構法に魅了されることになるきっかけでした。しかしチャレンジというだけあって、この学びは過酷でした。でももはや後戻りできない、そういう道だったと思います。それから足掛け4年ほど、三宅島に通いました。大学の先生方のスケジュールで動きますから、夏休みや冬休みには一ヶ月〜二ヶ月、ほかの時期は一週間というスパンで通い、そして最後はまるまる一年、どっぷり三宅島に居ました。

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三宅島の民家は、大黒柱があり、その向かいに大黒柱に準ずる柱があり、その二本で牛梁(島では地の桁という)を受けて中心軸にする、というものでした。それにあばら骨のように梁が掛かって大きな空間をつくることができます。まさに民家の原型とでもいうべき家づくりです。グループのメンバーの共同作業で、その全工程を「棟梁に学ぶ家 図解 木造伝統工法基本と実践」という本に著しました。ぼくの原点です。当時は伝統構法のことを言う人は非常に少なく、この本を出しても誰も読んでくれる人はいないだろう、図書館の片隅においやられてしまうだろうと予測されていましたが、予想に反して今も静かなロングセラーを続けています。

ちょうど生まれたてのひなが初めて見たものを親と認識するのと同じように、三宅島の宮下棟梁は私が初めて出会った棟梁であり、初めて関わったのが三宅島の伝統構法の民家だった。どんな建築がいいのか、考えた末にそこに行きついたのではなく、縁があって出会ったんです。

初原の営みと「結(ユイ)」での家づくりの魅力

三宅島でのプロジェクトになぜそこまでのめりこんだのでしょう?

家づくりのプロセスそのものに魅力を感じました。三宅島は小さな島ですから、専門の大工さんはそんなにいないんです。家の仕事自体もそんなにはなく、宮下棟梁の工務店も仕事としては公共土木事業が中心なんです。たまに新築工事の仕事が入ったりして人手が必要となると、普段は農業や民宿をやっている島の人たちの手を借りながら棟梁が頭となって適材適所に人を配置させ協同作業でつくっていきます。

もともと昔の民家って、その地で入手可能なものを使って、そこに住んでいる村人の「結(ユイ)」でつくってたんですよね。当時の三宅島には、棟梁を村長(むらおさ)とするそうした村落共同体としての初原の営みの姿と「結(ユイ)」の名残をとどめていました。宮下棟梁のおじいさんが山の木を伐る杣人、お父さんが木挽き棟梁。で、ご自身が大工棟梁に。三宅島の狭い世界に物足りなさを感じて、東京に出て、修業して、技量を広げましたが、寺や数寄屋など相当な仕事ができるようになったにもかかわらず、やがて島に戻り、島の人々とともにある、「結(ユイ)に帰る」生き方を選んだ。そこが棟梁の思想というか、仕事の向き方に覚悟を感じさせます。

「結(ユイ)」とは、大言海という古い辞書でひくと「緩んだものを締める」という意味があります。本質をついた言葉だと思いますね。田植えとか屋根の葺き替えなどの共同作業を通してみんなの意識が強く結ぶということです。粘菌が動物のようにふるまうのと同じで、ひとりひとりの人間が作業してはいるのだけれど、全体がひとつのいのちとしてはたらいているような感じ。私には棟梁はそういった生命活動に帰りたかったんだと思えます。東京でできるのは、それがどんなに良い仕事であっても、請負業、あるいは一職人としてのはたらきであって、それは村長(むらおさ)として村人のために生きるのとは根本的に違いますから。

バランスをとりながら
「結(ユイ)」的な家づくりを実践

で、埼玉に帰って来て、どうされましたか?

プロジェクトが終わり、家づくりを通して三宅島で触れたような初原的で「結(ユイ)」的な世界をどうつくれるかが、私自身のテーマになりました。さてこれからどうしようかという時に、すぐ近くに住むカメラマンの南さんから「自宅兼スタジオをできるだけ自分たちの手でつくりたいんだけれど、一緒にやってもらえないか」という話が来たんです。セルフビルドの手伝い、まさに「結(ユイ)」に通じる世界です。彼は食と住の自給自足をめざしていました。

三宅島で棟梁から学んできたシンズミとミズズミの原理原則をたよりに私が墨付けをしました。

シンズミとミズズミというのは、曲がった木を曲がったなりに使うしかなかった時代に、木と木を組み合わせるための頼り(基準)として考え出された木の表面に打つラインのことです。垂直に引くのがシンズミで水平に引くのをミズズミといいます。今は機械で木を真っ直ぐで真四角に製材できますから、木の表面をそのまま基準にできるんです。プレカット(工場加工)全盛の今の時代ではシンとミズのスミをつくるということを理解できる大工自体が少なくなってきているのが現状だと思います。

そして南さんと二人で加工して、時には彼の友人達が集まって手伝ってくれて、みんなで棟上げを手伝って…。大変でしたが充実した時間でした。結局これが建築としての初仕事となりました。越生梅林の奥の山の中にある「山猫軒」です。今では結構人気のカフェになっていますよ。

「結(ユイ)」的な仕事は魅力がありますが、今の時代は工事の責任を工務店や設計者が負うというのが前提なので、ただでさえ伝統構法は手間ひまがかかって大変なのに、ともすると、鶴が自分の羽根をむしりながら機織りをするような状況に陥ってしまいかねません。ずーっと自分の羽根で機織りをしていては継続できませんから悩ましいところです。

それでも、初原の営みとしての自分の住まい(巣)は自分で作るという生き物の基本と、助け合うという要素を家づくりのプロセスにとりいれたいと思っています。設計事務所、工務店としての経済活動を成り立たせていくことの間で、できることに限りはありますけど、施主が自分の家を作るという基本を大切にして、プロとしてサポートしていきたいです。

最近、法律が厳しくなってセルフビルドがしにくく、どうにかならないものかな、と思っています。あまりにも安全を個人の生き方より優先しているように見えます。国として責任を追求されたくないから、危なっかしいことは認めない、ということなのでしょうか。本来はどういう家をつくりたいか、住みたいか、というのは基本的人権だと思うのですが。

三日月型に荒壁を残してある部分。ビー玉のような色ガラスをはめこんであってかわいい。

これまでのたくさんの「ひきだし」で
お施主さんの望む家づくりにおつきあいしていきたい

これまで家具、バリアフリー(障害者の生活支持具)、造形的なものも作ってきました。他に古い建具の再生や特殊な建具はうちで作ります。妻が彫刻やステンドグラスで仕事に関わることもあります。それから地元周辺には建具屋や家具の作家やステンレス・鉄加工の人、造園屋などいろいろな職種の協力者にもめぐまれています。たくさんの関わりや「ひきだし」があるので、要望にはできるかぎり応えたいと思います。

セルフビルドに限らず、お施主さんの希望にこたえるのは、好きな方です。ひとりひとり要請もいろいろですから、「こういうのが私のつくる家です」というパターンにはあまりならないですね。ひとつひとつの家族の物語に耳をかたむけながら、「今回はどういうふうにしたらいいかな」という気持ちで、一軒一軒させていただいています。


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自分の仕事のあり方を図にあらわして説明する高橋さん。自己紹介シートにもすばらしい図がある。