吉野の川上村下多古村有林「歴史の証人」にて。樹齢380年のスギの前で記念撮影
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第13期木の家ネット総会 奈良大会


11月3日(2日め)
吉野ツアー

川上村の山幸彦もくもく館で
秋の季節感あふれるお弁当

時間いっぱいギリギリまでの総会を終え、宿の駐車場でクルマに分乗、中村茂史さんと中西豊さんが先導車となって、吉野へと向かいました。最初に訪れたのは、日本一の杉・檜の産地である吉野林業の歴史、特殊性、実態などが分かりやすく展示されている川上村の山幸彦のもくもく館です。じっくりと見る時間がなくて残念でしたが、またの機会に訪れて中西さんへのインタビューなども加えて、吉野林業についてのレポートをしたいと思います。

ウッドベースの中西豊さん

昼食はモクモク館の二階で、中村茂史さんが地元室生の地域コミュニティーうだ夢想の里に依頼して作ってもらった「地元のおばちゃん特製」のお弁当をいただきました。栗やムカゴを使った、季節感あふれる美しくて美味しいお弁当は、予定変更で余ったお弁当も含め「揚げ物ちょうだい〜!」「これ要る?」との賑やかなやりとりの中でおかずが飛び交い、すべて気持ちよく完食!となりました。

右:山幸彦のもくもく館(川上村林業資料館) 左:室生のおばちゃんたち特製のお弁当

吉野林業の歴史を語る証人
「下多古村有林」

食後は、吉野川を堰止めた大滝ダムを左に見ながら、さらに山奥にある下多古村有林へと向かいます。めざすのは「歴史の証人」と呼ばれる、樹齢250年以上の木がまとまっている、吉野でも屈指の日本最古の人工林です。2007年、川上村は、当時伐採の計画がもちあがっていたこの0.37haの地を「下多古村有林」として購入しました。林内には、樹齢250年超のヒノキが52本、スギが10本あります。川上村はこの林を吉野林業を維持し続けて来たシンボルとして、大切に保存管理しています。

クルマを降りて、登山靴やスニーカーに足ごしらえして出発。ウッドベースで中西豊さんの片腕として活躍する、菊谷紀恵さんが、凛とした地下足袋姿で、キビキビと案内してくださいました。紀恵さんは、吉野の出身。京都の短大で学んだゼミで民家調査などにも関わり、地元吉野の良さを再発見し、ウッドベースに就職を決めたそうです。事務職だけでなく、積極的に山に人を案内し、吉野林業の特徴や歴史を伝える大切な役割を果たしています。「木は、人の一生よりも長い時間をかけて育てるもの。先人の想いを受け継いで、大切に育て、大切に使ってほしいです」と語ります。

ウッドベースの菊谷紀恵さん。林業地下足袋に名前が刺繍されています。

吉野に独特な超集約的林業でつくられる美材
借地林制度と「山守」の存在

下多古村有林までは、30分ほどの上り道。途中、個人の方が管理する山を通りますが、山の名称や持ち主の名、間伐した時期などが木に記してあるのを見かけました。お札がかかっている木もあるのは、近々伐採するものか、あるいは伐採せずに残すことを決めた木のどちらかとのこと。人が意思をもって造林している山、ということが伝わってきます。

間伐が行き届いているため、植林地でありながら陽射しが地面まであり、暗いという印象がありません。木はまっすぐに天に向かって伸び、枝は高いところにしかついていません。節のない、年輪が緻密で、幹が真円に近い吉野材は、立ち木の姿からして美しいのです。江戸時代初期以来ずっと受け継がれた「超密植・多間伐・長伐期」という吉野独特の集約的な造林方法によって、このような状態が維持されています。

吉野の美しい人工林

戦国時代、各地で城が造営されるようになり、吉野の大径木の杉や檜がもてはやされるようになったことが、人工的に手をかけて造林する「吉野林業」が発展するきっかけとなりました。人の一生よりも長い時間かかる造林を支えるために、「借地林制度」といって遠くにいる所有者が費用を出し、吉野の地元の人が「山守」として所有者に代わって造林・育林をするシステムが江戸時代にすでに確立されていたからこそ、樹齢250年を超える木が残ってきたわけです。

樹齢380年、胴回り5m超のスギの貫禄
「ふるさと文化財の森」に選定

休み休み、30分ほど尾根近くまで登りつめていくと、村有林の中でもいちばん高樹齢のスギにたどり着きました。樹齢380年といいますから、豊臣秀吉が滅んだ頃から生えていたと推定されます。胴回りが5mは優に越え、高さは50mほど。見物台も設置されています。「この木、俺がもろうた〜っ」と、宮村さんと宮内さんが取り合うシーンに、一同、大笑い。山登りの疲れもすっかり吹き飛びました。あとで宮村さんに「この木、もらえたら、何作りたいですか?」とこっそり尋ねてみると、間髪をおかず「塔やね」との答が返ってきました。

樹齢380年の勇姿に、ただただ感嘆する

2013年3月、この下多古村有林は、文化庁「ふるさと文化財の森」に選ばれました。これは、文化財修理に適した木材を供給し、 研修林としても活用するという目的で文化庁が設定するものです。下多古村有林は、伐採はしない保存林ですが「吉野林業の姿を伝える」という点が評価されたものです。伐ってしまえば、その歴史を伝えるものがなくなる、まさに「歴史の証人」としての価値が認められたわけです。

丸太のセリが開かれる広場で
「吉野の主」と呼ばれる乾さんに会う

息を切らして登って来た道を、足取りも軽やかに下り、それぞれクルマに分乗して次に向かったのは、吉野の山から出た原木丸太が取引されるエリアです。吉野川と吉野神宮駅との間の一帯に材木商や製材所が立ち並び、その一角には、原木市が立つ日に丸太のセリが展開される広場があります。

この日、広場はガランとしていましたが、吉野の主の一人と言われる、材木商として名の売れた乾木材の乾さんが、私たち一行を待っていてくれました。奈良の中村茂史さん、埼玉の高橋俊和さん、東京の高橋昌己さんなどが、これまでに乾さんから原木を購入してきたご縁もあって、前回の市でセリ落とした杉の大木を前に、切断面からその木の価値をどう読み取るのかについて、乾さんからプロ向けの解説を聞くことができました。

乾木材の乾さん

断面から読める木の生育履歴と
製材した姿の予想

丸太の断面を見てまず驚くのは、年輪の緻密さ。吉野材は、1センチに8年輪以上が詰まっているといわれます。密植、間伐、枝打ちを丁寧にすることで、早く太らせず、まっすぐに育てた結果、年輪が緻密になり、構造材として申し分のない強度が出るのです。

左:切断面 右:このような丸太がゴロゴロ

乾さんによると、木の断面から、木の生育履歴や、その木を製材するとどのような材が得られるかを読み取れるのだそうです。「ここは雷が落ちたあとやね」「雷で焼けこげた痕から水が入ったな」「ここを避けてこう木取りすると、きれいな板目が出るな」「倒れていく木が隣の枝を払っていくように伐倒するから、片節となり、無節の面が得られるんや」乾さんがその木について語り始めると、参加者から次々と質問が飛び、それに乾さんが答えるという、興味深いやりとりがエンドレスに続きました。

「木を見る目」に裏打ちされた想像力

「木を売り買いする」のに必要なのは、「木を見る目」に裏打ちされた想像力なんだな、ということを、強く感じました。木の家ネット全員の最大の共通点は「木が好きで好きでたまらない」ということですから、乾さんの原木談義で木についての見識をさらに広げることのできた、素晴らしい時間でした。日もとっぷり暮れ、電車で帰路につく人は吉野神宮駅へ、翌日に薬師寺見学するメンバーは、連泊する美榛苑に向かいました。

質疑が延々と続き、尽きません!いつまでも聞いていたいような刺激的な応答でした。

11月4日(3日め)
薬師寺見学

東塔の解体修理現場へ
完成予定は2018年春

薬師寺大講堂を見上げたところ。屋根の重なりが美しい

総会三日目は、奈良市内の西ノ京の薬師寺へ。最大の目玉は、東塔の解体修理現場の見学です。解体修理中の東塔は、一見するとビルのようにも見える白い覆屋に囲われていて、一般の参拝客は中に入ることができません。新代表の大江忍さんが主宰するナチュラルパートナーズの施工をしている藤井棟梁のご縁で、薬師寺の加藤朝胤執事長にご案内していただくこととなり、今回の見学が実現しました。

左:薬師寺の加藤朝胤執事長 右:奥に写っているのが覆屋に覆われた東塔

塔の周囲を、コンパネでできたスロープが螺旋状にまわっています。眼下に奈良のまちを見渡しながら何周か登って上がり、現在解体している層のひとつ上の階までたどりついて、加藤執事長による解説をうかがいました。2009年から瓦、木部、基壇など、全ての解体に着手しており、地下の発掘調査も行った後、傷んだ部分を修繕して再び塔の姿に組み上がるのは、2018年の春の予定とのことです。

「みなさんにお聞きしたいんですが、仕上げは創建当時のような極彩色に着色するのがいいでしょうか、見慣れている古材の色のままでいいのでしょうか、ちょっと挙手願えますか?」との質問があり、ほとんどの人が「古材の色のままでいい」という方に挙手。「プロの方は、みんなそうおっしゃるんやね〜」と加藤執事長がつぶやいていました。さて、どちらになるのでしょうか? 2018年春をお楽しみに。

独立基礎の上に「ただ乗っかっている」心柱
森に立っていた姿のままが塔に

高さ心柱は上部13mと下部17mとを継いで一本になっている。 左:劣化してきた継手部分上部を金属製のバンドで固定してある。 右:継ぎ手「貝の口」のしくみを解説した模型

東塔は、一見六重の塔に見えますが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔です。大小の屋根が重なる美しさを「凍れる音楽」と表現した人もいるそうです。構造的には、心柱が建屋からも基壇からも独立しているのが特徴です。心柱の全長は30m。2本の丸太を継いであります。「貝の口継ぎ」と呼ばれる継手の模型が展示されていましたが、とてもシンプルな形であるのに驚かされます。しかも、この柱は基壇の上の礎石に「ただ乗っかっているだけ」で、その周りを塔の屋根や裳階が取り囲んでいるというのです。

解体中の東塔。上にかぶさっている相輪が取り外されたあとの心柱頭頂部分

前日に吉野の山を訪れたばかりの目で心柱を見ていると、吉野の山で出会った樹齢380年のスギの姿が思い起こされてなりません。1300年前に心柱となった木は、それまでに少なくとも200年以上は山に生えていたのだろう・・などと想いを馳せていると、木の精が山から移され、山にあったようにしてこの塔の心柱になったのだ、ということが胸に迫ってきます。塔とは、お釈迦様の骨をおさめるための建造物ですが、木が森に生きていたのと同じ姿で立って、森の精気を具現するしているのだということを、強く感じました。解体現場を見なければきっと感じ得なかった気持ちが満ちて、心から今回の総会に参加して「よかった!」と思える瞬間でした。

大切な塔を火から守る水煙を真近に見る
飛天が舞い降りて笛を吹く美しい姿

東塔の相輪上部にのる水煙。水煙の二つの玉は、上から宝珠と龍車。

修理現場の次に、加藤執事長のご案内で「東塔水煙降臨展」仮設展示棟を見学させていただきました。水煙とは、心柱の上にかぶさる相輪のうち、九輪とよばれる金属製の輪の重なりの上に載っている青銅製のレリーフのことです。名は水煙ですが、造形としては炎を模しています。大切な塔を火の難から守るという願いを込めて、水煙と呼ばれるのだそうです。

水煙には、天から降りてきて笛を吹いている飛天が舞う姿が透かし彫りになっています。ごくごくシンプルで、大らかな感じで、天平の息吹が伝わってきます。ところどころあいている穴は「風鐸」とよばれる風鈴を吊り下げる穴です。強い風とともにやってくる邪を祓う意味があるのだそうです。ひとつひとつの装飾にも、陰陽五行的な意味が具体的に表現されているのですね。

無心に書くことの難しさを痛感した写経
「空」とは、自由な心

「東塔水煙降臨展」を見終わった後は、本坊寺務所の奥にある写経道場で般若心経の写経をしました。下においた手本をなぞっていくのですが、筆で書くことに慣れていないので、なかなか思ったようには書けません。「巧い、下手は気にしなくていいのです、一字一字、心を込めて丁寧に書けばそれでよいのです」と言われるのですが「ああ、失敗した〜」と思ったり、隣の人の進み具合をチラチラと見ては「ああ、うまいなー」「ヤバイ、遅れてる!」などと、雑念が次から次からわいてきて・・字を書くことに無心に集中することの難しさを思い知らされた時間でした。

神妙な面持ちの綾部の金田克彦さん

写経はズタズタでしたが、写経場でひとつ、いいおみやげをいただきました。般若心経を書き写すのは難しい人向けの手本としてあった「かたよらないこころ こだわらないこころ とらわれないこころ ひろくひろく もっとひろく これが般若心経 空のこころなり」という言葉です。これまで「からっぽ」「むなしい」という捉え方をしていた「空」という言葉が、とても豊かなものとなりました。

びくとも動かなかった丸柱
大講堂再建工事時のエピソード

その後、薬師寺でご用意くださった精進弁当をいただいて、総会はお開きとなりましたが、解散後、薬師寺でも最大の規模の伽藍である大講堂を、2003年の再建工事に参加していた宮村さんに案内していただいた時に興味深いエピソードを二つほどおうかがいしたので、ご紹介します。

大講堂は、太い丸柱が林立して屋根を力強く支え、巨大な空間をつくり出していますが、この丸柱も基礎に直接置いてあるだけの石場建てです。工事期間中、大工同士で「ただ置いてあるだけの柱を、みんなで押したら動くか」という賭けをしたことがあったそうです。安全のためにてっぺんをクレーンで吊っておいて、全員でかかって押したのですが、重量と摩擦のなせることでしょうか、柱はびくともしなかったそうです。地面に接する断面の中央を少しだけ、瓶の底のようにくっておくという工夫があるということを聞いて、なるほどと感心しました。

大講堂

再建工事に携わった全員が
心を合わせて作った「登高座」

法相宗では毎年11月13日、開祖 慈恩大師をまつる「慈恩会(じおんね)」の時に、法相宗の教えを二人の僧侶の問答形式で再現する「論議法要」を行います。その際に、問いかける僧侶と答える僧侶とが、「登高座(とうこうざ)」とよばれる一段高くなった場所にあがるのが習わしです。弥勒三尊像の両脇に黒漆で仕上げられた「登高座」がしつらえらえているのですが、大講堂再建工事の最後にこの高座を作った時のエピソードをご紹介しましょう。

「大工一人でできるようなものなんですが、ひとりがひとつずつパーツを受け持つ形で、大講堂の施工チーム全員で合作したんです。全国から我こそは、という気持ちでこの工事に集まった大工達ですから、プライドも高く、工事期間中、時としてお互いに張り合う気持ちが強くて打ち解け合えない場面もありました。しかし、登高座を合作する頃は、工事も終盤に近づいており、それぞれの持ち味、力の発揮しどころなどがお互いに見えていて、誰がどこを分担するかもスムーズに決まっていきました。それぞれが制作したものを持ち寄ってみたら、なんと、一発できれいに組み上がったんです。長い工事期間を通じて、みんなの心がひとつになった、と感激した瞬間でした」

いい話の余韻の中で響く
風鐸の音に送られて

ひとりひとりが自分を押し殺して表面的に譲り合うのでなく、自分に対して誇りをもつのと同じくらいに、人の存在をも大きなものとして認識する。それぞれに違った個性を互いに尊重し合う中で、適材適所で協力する。そのようであってこそ、多様性が力となって発揮され、大講堂の再建という大仕事ができるのだな、と感心しました。

いい話を聞いた余韻で、薬師寺をあとにする去り際に、高い空から「チリンチリンチリン・・・」といういい音がいくつか響き合うのが聴こえてきました。どこで音がしているのだろう? と見上げると、空高く、どうやら西塔の水煙に仕込まれた風鐸が鳴っているのでした。解体修理が無事に完了すれば、東西両方の塔からこのいい音が聴こえてくるようになるのでしょう。完成したあかつきには、きっとまた薬師寺に来よう、と心に誓って、家路についたのでした。


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薬師寺東塔上部にのる水煙。天から舞い降り、笛を吹く飛天たち