シンポジウムの1コマ。コーディネーターの赤堀さんの質問に対して、参加者が赤、黄、青のカードを掲げてこたえる。
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第八期木の家ネット総会・小江戸川越大会のレポート


午後1時を過ぎ、昼食を済ませた町歩きからの参加者が戻り、新たな参加者も加わり、シンポジウムの開催会場となる茶陶苑前の広場が朝の町歩きの集合時間以上に賑わいだしました。その人の流れが、大きな蔵の薄暗い中に、吸い込まれるように入り込んでいった時、みなさんは、太い柱、白い壁にタテヨコに格子を組んだむき出しの柱と貫の空間をきょろきょろと見回し、その壮大さ、力強さに驚いた様子。時間が刻まれたことを実感できる空間には理屈はいりません。この空間のすばらしさは、参加者の記憶にしっかりと刻まれたにちがいありません。

概ね定員200名の来場を得て会場は満員となり、主催側としてはまずはひと安心。会場のレイアウトは、蔵を横長く使い、パネラーを扇状に囲むようにすることで参加者との距離を近づける椅子配置としましたが、これは茶陶苑の山崎さんからの提案でした。声もよく通り、マイク無しでも十分に聞き取れる距離感はたいへん良かったのではないでしょうか。

「家を住み継ぎ まちを元気に」
亀屋山崎茶店 茶陶苑 山崎正博氏

茶陶苑の大蔵は、江戸は嘉永3年(1850年)に元は味噌の醸造蔵として建てられ、明治26年(1893年)の川越大火にも生き残った、一番街付近では数少ない建物です。まずは、茶陶苑の大蔵を、人の集まれるスペースとして再生・活用された茶陶苑店主の山崎正博さんのお話をうかがいました。

若い頃に川越を離れ、アメリカやヨーロッパで仕事をしていた山崎さんが、実家の建物を再生しようという気持ちになったのは、ヨーロッパで古い建物がうまく住み継がれ、現代に合った形に使われているのに出会ったからでした。「再生するのであれば、これからも使えるように」という意思をもって、経済的な問題、文化財保護の問題、技術面でクリアすべきことなどに取り組んで来られました。現在では、ふだんはお茶にまつわる陶器など山崎家のコレクションを展示するギャラリーとして、そして年に数回は蔵の音響効果を活かしたコンサートホールとして活用されています。詳しくはこちら

山崎さんのお話は、一般の方にはいささか専門的であったかもしれませんが、年月とともに朽ちていくにまかせていた頃は重荷でもあった建物が、利活用を前提とした再生工事を経て、自信をもって未来に継いでいける建物へと変容していくプロセスをうかがうことができ、大変興味深いものでした。実際に再生された蔵の中でその再生の物語を聞くことができるということで、臨場感をもって参加者のみなさんに聞いていただけたことと思います。

大蔵の2階。合掌づくりと天秤梁とが交互に並ぶ小屋裏空間。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、建物を再生するために取り組んだ施主として、どういうことを実現したいのかということを関係者にしっかりと伝える意思と姿勢の大切さです。最後の締めくくりに山崎さんはこんなことをおっしゃいました。「もともとの味噌蔵のオーナーやお茶屋の先代が、お墓の下で『何をやってるんだ』と言っているとは、私は思っていません。時代が変っていく中で『好きなようにやりな』と言ってくれていると思います」まさに想いが継がれていくことで、建物がちゃんと生きた形で残った、すばらしい再生事例といえるでしょう。詳しい記録は、こちらをご覧ください。

「川越・蔵の町づくり」
 NPO法人川越蔵の会 守山登氏

守山登氏

次に、川越を「蔵の町」として再生してきた市民団体「川越 蔵の会」の会員で建築士の守山登さんに、川越の歴史の概略から町づくりの活動、今なお整備が進んで変っていく川越の様子などの報告をしていただきました。町歩きをしたこられた方には特に、見てきたものと守山さんの解説とが具体的につながり、時間がタイムスリップしたかのように見えるこの川越の町も、じつは人の力で変化しつづけていおり、その結果として今の町の姿があるのだということを実感していただけたのではないでしょうか。

川越の魅力は、江戸時代から伝わる蔵造りの町並みと、明治・大正期に建てられた、当時としては最新のデザインである洋風建築とが混在していることです。建設当時は違和感をもって迎えられていたかもしれない建物も、いまでは大正ロマンの香りが漂う、いい雰囲気を醸し出しています。

その川越も1970年代の万国博覧会前後、高度経済成長にともなって日本が全国的に大きく改造されていった頃には、歴史的な建造物がどんどん新しい商業施設や居住施設に変り、歴史が切リ崩されるような危機的な状況に陥りました。今では多くの人々が来る一番街もこの頃は衰退していたようです。

それを見かねて、1983年、川越JCのOB、地元建築家、外部応援団、主婦らが「川越 蔵の会」を結成、(1)住民が主体となったまちづくり(2)北部商店街の活性化による景観保存(3)まち並保存のための財団形成をめざして活動をはじめました。

「川越 蔵の会」の運動で特徴的なのは、商店街の活性化のための町並み保存ではなく、町並み保存の為に商店街を活性化させるという方向性をもっているということです。活性化だけのためであれば、簡単にファサードだけを直して済ませてしまいがちになりますが、歴史的建造物を保存することが結果として活性化につながる、だからこそ、本物として再生することが大事なんだという姿勢を貫いて来たことが、川越の蔵の町の、本物にしか醸し出せない厚みを、生んでいるのでしょう。

左/市民運動で保存が決まった、旧 川越織物市場 右/大正浪漫通りの町並み。石畳の歩道が歩きやすい。 

もうひとつ特徴的なのは、住民主導のまちづくりと、主体がはっきりしていることです。歴史的建造物が少しずつなくなっていくのを、市民がディベロッパーとなって再生、利活用することは、守りたい土地や建物を市民で買い取るナショナルトラスト運動と同じ効果を生む。住民がその主体になろう、ということで町並み整備のための委員会を立ち上げ、町づくり規範を制定し、電線の地中埋設、看板や建築物の制限による景観統一などを実現しながら、1990年代に「一番街」や「大正浪漫夢通り」の町並み整備を行っていったのです。

そして1999年、伝統的建造物群保存地区に選定されたことなどが弾みとなり、2000年代に入って一番街の歩道の石畳化と街路灯事業なども展開し、観光客も倍増しています。

2000年代は、まちづくりの確立期。99年に伝統的建造物群保存地区に選定されたことなどが弾みとなり、一番街の歩道の石畳化と街路灯事業なども展開し、観光客も倍増してきています。今では、週末ともなれば、レトロな雰囲気を楽しみながらショッピング、散策を楽しむ人々であふれかえります。今後も、車と人との分離、歯抜けになっている空き地や再生されずに朽ち果てていきかけている歴史的建造物の活用、マンション建設問題など、さまざまな課題がこれからも山積みのようですが、これからも「蔵の町 川越」が古きよきものを守りつつ、より生き生きと発展させていくために活躍していかれることを期待しています。

 パネルディスカッション
「未来に住み継ぐ木の家づくり」

休憩をはさんでシンポジウムの後半は、林業、大工棟梁、建築士と、長持ちする木の家づくりに関わる現場の方たちと、長寿命の200年住宅を政策的にバックアップする立場の国土交通省木造住宅振興室の越海室長とがパネラーとして舞台に登場、赤堀さんの司会で木の家をめぐるパネルディスカッションを行いました。

  • 山中 敬久氏
  • 和田 勝利氏
  • 綾部 孝司氏
  • 小林一元氏
  • 越海興一氏
  • 赤堀楠雄氏
  • 林業:山中 敬久氏((有)角仲林業・NPO法人伝統木構造の会)
  • 棟梁:和田 勝利氏((株)和田工芸 ・NPO法人民家リサイクル協会)
  • 棟梁:綾部 孝司氏((有)綾部工務店・木の家ネット)
  • 建築士:小林一元氏(小林一元建築設計室・木の家ネット)
  • 行政:越海興一氏(国土交通省木造住宅振興室長)
  • コーディネーター:赤堀楠雄氏(林業ジャーナリスト)

「あなたが大切にしているもの」「あなたが住んでいるのはどんな家?」「今、住んでいる家が好きですか?」といった質問から入り、「今、住んでいる家は100年後、どうなっているでしょう?」と、パネリストも会場もいっしょになってコーディネーターの赤堀さんが発する質問に赤や青や黄の紙をあげて回答しながら考えていったのですが、「解体されてなくなっている」という答がほとんど。ドイツ在住の参加者から「ドイツでは木造建物であっても10年毎にメンテナンス、30年ごとに住まい手が替わり、100年、200年もたせるのは、あたりまえ」というリフォームやライフスタイルに合わせた住み替えの発達した住文化の紹介があり、木の家を長く住み継ぐにはまず、家を社会資産としてとらえる発想への切り替えが必要だということを、つくづく感じさせられました。

その後「木の家の良さとは?」という問いに対して、立場の違うパネラーのみなさんから、それぞれの回答がありました。肌触り、和みの感覚、生活の変化への対応のしやすさ、素材が本物であること、ゴミ問題や山の健全なあり方に貢献できる循環など、さまざまな要素が列挙されました。そうしたよさがもっと社会的に評価されていくことが必要ですが、それに先立って、安ければ、今さえよければそれでいいという大量生産・大量消費の意識から、価値あるものを長く大切に使う、環境に負荷をかけないといった意識へと、意識の変革が行われなければならないでしょう。

最後にコーディネーターの赤堀さんが「長い道のりが必要かもしれませんね」という前置きとともに、あたりまえの、しかしとても大事な指摘でパネルディスカッションを締めくくってくださいました。それは「木を好きになっていただくことがスタートになる」ということです。意識の変革以前に、まずは木のよさ、木の家のよさをよりたくさんの人に知ってもらうこと、木の家づくりが手の届かないことではなく、つくり手は身近にいるのだということを伝えていくところからはじめていくことがまず大事です。木の家ネットがそうした発信媒体として役立っていければと思います。

パネルディスカッションの記録は、こちらをご覧ください。

参加した方のアンケート回答の抜粋です
  • 林業、建築設計、工務店、職人大工などが木の家をつくることによる技術の伝承、経済的に成り立つ仕組みづくりをしていかなければくてはならないことを認識させられました。
  • 戦後日本の経済優先の価値観を植えつけた社会環境や教育のあり方が根本的な問題のように思います。木の家の持つホントの価値をきちんと認識できるように伝えていくことを地道に続けていくこと。これからは量より質の時代、少し高くてもいいもの、ホンモノを!!という価値観の時代にはいってくると思う。
  • 木の家はなごむし、人の社会にとっても合っていると思う。世界に広げたい日本の技術。
  • 会場の蔵の雰囲気が講演者の様々な視点の話とがあいまって、とても心地よい空気の中で有意義な時間をおくることができました。
  • 気持ちが大切だということを本当に思いました。このように気づかせてくれたことに感謝いたします。
  • 実際に仕事をしている方の前向きな意見にいろいろ可能性を見た気がします。子供たちを山に連れて行き、森を見せて育て、その木を切って家をつくるところを見せることができればよいですね。
参加者は、年齢も雰囲気も、実にさまざまでした。
(木住研 宮越喜彦)

「初音屋」の百畳敷きの大広間での懇親会

  • 新会員の杉岡世邦さん
  • 新会員の北見明寛さん
  • 新会員の小町歳幸さん
  • 新会員の星野将史さん
  • 初音屋の若主人
  • 「来年は熊本に来てください!」と古川保さん

シンポジウムが終わり、茶陶苑を片付けて、懇親会場の初音屋さんに向かいました。初音屋は昭和初期の建築で、建築にまる2年を要したという川越で最大の「百畳敷き」の座敷で、懇親会が行われました。大広間に長〜い通しの鴨居が何本もわたっていて、立派な座敷です。戦後GHQに接収され、この座敷に絨毯が敷かれ、応接セットが置かれた時期もあったということです。靴のままあがったのかな〜と気になります。

懇親会では恒例の自己紹介。新入会員として、熊本の製材所の杉岡さん、千葉の大工の北見さん、東京の大工の小町さん、神奈川の工務店経営の星野さんが紹介されました。4人とも若い、伝統木造のこれからを切り拓いていく方たちです。楽しみで、頼もしいですね。自己紹介タイムの最後には古川設計室の古川さんが、「次回の総会は 熊本でやらせてください!」と名乗りをあげました。「みなさん遠くで大変ですが、今から積み立てしておいてください。また来年、熊本に集まりましょう。」

ひとしきり紹介ごとが済んだ後、ノートパソコンで11月28日と12月4日にE-ディフェンスで行われる、伝統的木造軸組構法住宅の性能検証振動台実験で揺らす関西型・関東型の2棟のモデル棟の施工写真を映し出しながら、モデル棟の仕様について風基建設の渡邊さん、三和総合設計の岩波さんが説明をしてくださいました。それまでそれぞれの席でくつろいでいたメンバーがモニター画面を囲み、食い入るように見ていました。

最後に、座敷が出来た当時から3代後にあたる若い当主が挨拶をしてくださいました。蔵の会の会員でもあります。「この建物をずっと残して行きたいが、心配なのは耐震性。専門であるみなさんに、この建物がもつかどうか、ぜひ教えていただきたい」と、建物の安全性を確保しながら、維持し続けていきたいという気持ちが実感をもって伝わる場面もありました。建築基準法に位置づけようとしているのは、伝統木造の建物を新築する場合のこと。しかし、全国には、住み継がれてきている古い建物がたくさんあり、そうした建物を将来にわたって住み継いでいけるような法律的なバックアップは、まだまだ不十分です。手を入れながら住み継いできた建物を社会的ストックとしてみるのであれば、それを残して行けるようなしくみが必要だな、ということを、初音屋の若主人の話を聞きながら、思いました。

(木の家ネット事務局 持留ヨハナ)


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懇親会の最後は、3・3・1の川越締め