若い頃に建てた新建材の家が、もうない!?
高山や奈良に通い、先生方の薫陶や訪れる現場を通して伝統構法の勉強をし、実際に社寺建築に携わってはいても、ある段階までは「社寺は昔ながらの伝統構法でやるもの、住宅はそれとは別もの」ととらえている自分がいました。それが、あることをきっかけに「住宅だって社寺と同じ、木をもたせるよう伝統構法でつくるべきなんじゃないか」と思うようになっていきました。
あること、というのは、親父のもとで手がけてちょうど20年ほど経った、新建材づくりの町場の家がみんな揃って傷んでくるのが目についてきたんです。新築当時は最先端だった新建材はくすんでいるし、合板はベコベコに。ハウスメーカーの家に建て替えられて、うちで建てた家がすっかりなくなってしまったところもありました。建てた当初の施主だったおじいさんおばあさんが「息子の代だから、建て替えました」と済まなそうにおっしゃるのを聞いて、なんともいえないさみしい、むなしい気持ちがしたものです。
せっかく木をもたせるつくり方があるのに・・
「早く、安く」はつくり手の都合?
お寺や昔ながらの田舎の農家づくりの家は100年でももつのに、新建材で建てた町場の家は20年と持たない。合板はベコベコ、ビニルクロスもボロボロ。プレカットで組んだ木はユルユル。手刻みなら「松は後からこのくらい、杉はこのくらい痩せるから」と、木の刻み具合で組み方のキツさ加減を微妙に調整するのですが、プレカットだと経年変化による木の痩せまでは考えていないので、組んだところがゆるんでくるんですね。
そういった悲しい変化を目の当たりにして「同じ木造でも、ちゃんともたせられるつくり方をすればもつのに、なぜ、そうしないのだろう?」という当たり前の疑問や「こんなつくり方をしていたのでは、お施主さん家族と長い関わりができなくなる!」という危機感がむくむくとわいてきました。あれこれ考えていくと、結局、高度経済成長以降の町場の家づくりというのは、つくり手の都合に過ぎないということが分かったんです。その家が長持ちするかどうかより、いかに工事期間を短縮させるか、どれだけ手間を省くか、というつくり方なんですね。
たしかに、同じ木造でも昔ながらの手刻みだったら、1坪あたり1.5人工ぐらいのペースで、2〜3人かかっても刻みだけで1〜2ヶ月かかってしまうところを、プレカット工場から材が出てくるハウスメーカー住宅だったら、基礎から仕上げまでで3ヶ月で建ってしまう。完成までの期間は短いんです。お施主さんは「なるべく安く、早く作ってほしい」と言いはしますが、それをそのままに聞き入れることは、建物のためにも、長い目で見ればお施主さんのためにもならないんです。本来は、そこを我々がプロとして、伝えていかないと!という使命に気づかされました。
「忘れ鑿(のみ)ありき」
今は無理でも、将来できるようにしておく
たどり着いた結論は「うちには、せっかく、先祖が伝えてきた木を長持ちさせる技術があるのだから、社寺といわず、住宅といわず、それを活かそう!」と肚をくくることでした。このように方向性が定まって以来「せっかくお金をかけて注文住宅をつくるんですから、せがれさんの代も孫の代も住み継げるような、長持ちする家をつくりましょうよ」と積極的に提案するようになりました。ということで、うちでも、合板を使わず、手刻みで、国産材無垢材100%の家づくりをするようになりました。
それでも、お客さんの予算というのは、どうしてもありますよね。先日も「先祖のものだからつぶせないから、直したい」というお蔵の修復を頼まれました。ところが、土壁を施工するだけの予算がないんです。それでも、後から余裕ができた時に、真壁の土壁塗りもできるよう、貫工法にするつもりで考えています。木で組んだ上に、珪カル板かモルタルを塗ることになると思います。
ちょっと話が飛ぶんですが、私がまだ高校生だった昭和44年頃、父が金錫寺のお堂の新築工事をした時に、工事現場に鑿を忘れていったことがあるんです。で、そこのご住職が、柱に「忘れ鑿(のみ)ありき」と板に筆で書いた札を作って、柱にかけておいてくださったんです。棟梁と施主との、またの再会に心を残すような気持ちの通い合い、尽きせぬご縁をあらわすエピソードですよね。40年以上経って金錫寺を訪ねてみたら、その札そのまま、かかっているんです。字はすっかり読めなくなっているし、それを書いたご住職は既に亡くなられて代替わりしているんですけれどね。
今回のこの土蔵の仕事では「忘れ鑿」の代わりに、棟札に「こうすれば本来の土塗り壁に戻せますよ」という手紙を添えてみようかなと思っているんですよ。今回は無理でも、次の世代の方が「先祖が建てて、親の代で直してくれたこの蔵にもう一度手を入れたい」と思い立たれた時に、その棟札に添えた手紙を見てくれて、本来の形に戻してくれたらいいなという願いをこめてね。その時が来るのが、私の代でなのか、あるいは私の次の世代でななおかも分かりませんが、そうやって世代を越えたおつきあいができたらステキだなと思います。