現場は宝の山。けれどそれは、自分で掘り出すもの。
薬師寺の平成の大修理に飛び込む
製作中の薬師寺の仏具
宮村さんは山口出身。親も大工だ。「3年いたら宮大工の修業に出してやる」という約束で高卒後仏壇会社の木工部に入社、仏壇の取り付けなどをしていたが、早く大工がしたくて飛び出して、名古屋の「浅草屋工務店」で修業に入った。
薬師寺大講堂のご本尊の真上の天蓋。この視線で見ることはなかなかできない!
修業の5年の年季があけ、お礼奉公も済んでフリーになった頃、薬師寺の平成の大講堂の造営工事に来ないかと声をかけられた。迷わずに奈良に飛んだ。西岡常一の片腕だった上原棟梁統括のもとに10人以上も大工がいる大きな現場だ。「道具の使い方でも継ぎ手の仕方でも、10人それぞれにやり方がある。といっても、教えてくれるわけではないから、自分からどんどん訊いたり、見て盗んだり。毎日が刺激的でした」
一歩引いて見えてきた、たくさんのこと
愛用の罫書きゲージ。社寺の現場ではよく使われる。木の家ネットから応援に来た大工たちの間にも普及しはじめている。道具の使い方ひとつから、交流が生まれる。
大工として仕事にのめりこんだ。薬師寺の大講堂の造営工事は、現場組と工場で刻みをする加工組とに分かれていた。現場で先頭に立ってやりたいのが宮村さんだ。ところが、ある日「宮村は加工組に行け」と上原棟梁に言われた。ショックだった。決定をくつがえそうと、直談判に行くと「君はいままで先頭ばっかり歩いて来た。ここで一歩下がて、見ることをおぼえたらどうだ。それが宝になるから、わしの言うことをだまって聞け」と諭された。
美しく研がれたさまざまな寸法の鑿
悔しかったが、従うしかなかった。加工場からいったん出てしまったものは、戻ってはこないのだから、間違いはゆるされない。自分が加工場で刻んだものが、現場でどうおさまったのか、自分のした刻みがよかったのか、悪かったのか、それを知りたくて、毎朝、始業前の時間に、現場に確かめに行った。現場の棟梁に評価を求めた。「そこで分かったことが、自分で現場で手を下すだけの時よりも、はるかにたくさんありましたね」
槍がんなを実演してみせてくれた。くるくると薄いけずり屑が出る。
「気持ちの向き方次第で、現場は宝の山にもなる、上原棟梁はそう教えてくれようとしたんだと思います」しかし、宝は転がっているのではない、自分で掘らないと、出てこないのだ。しかも、宝は人がもっている。「人にお伺いする、学ぶという心でないと、心が歪んでいたら、教えてもらえることもない」だから、挨拶や生活態度、心構えが大事、と宮村さんは強調する。
自分も先輩から習った。これからは、その恩返し
宮村さんが木の家ネットに入会する時に持って来てくれた継手・仕口集。
「薬師寺で学んだ奈良の大工のやり方ももちろん、西岡棟梁といちばん長くおられていながらこれまで紹介されることの少なかった上原棟梁の想いも伝えていくのも、僕の役割だと思っています」社寺が専門の宮村さんが木の家ネットの仲間に加わった時、自分が大事に集めた仕口・継手の図集を「みなさんの参考になれば」と携えてきた。現場で人手がいる時には、木の家ネットの仲間たちに応援を頼む。宮村さんは自分が教わってきたことを、現場での交流を通して、人に伝える側にまわっている。すぐれた職人技術はこのようにして、伝わっていくのだ。