花輪のシンボル「コミセ」 道路拡幅にひっかかる
行政では保存に難色。民間でなんとかするしかない!

建物を持ち上げているジャッキのアップ。カメラレンズと撮影後の加工の関係で、鉄骨などが歪んでいるように見えるが、実際はまっすぐ 。
なぜ、このような大がかりな曳家工事がなされたのか。江戸末期に創業した関善酒店は、鹿角屈指の造り酒屋。豪商として地元の政治、経済、文化、祭事においてリーダーシップをとっていた。明治37年の大火で全焼した後に建て直したのが今の建物だが、20年ほど前に酒造りはやめており、今では改装した蔵で小売だけを営んでいるので、主屋は使っていない状態である。

5/29 移動。以前は写真右端に写っている工事用の柵のところまであった建物が、後方に3.8mも移動。
かつて、この六日町通りに面して、1キロ以上にわたって「こもせ(小店)」と呼ばれる木造のアーケードが続いていた。こもせの屋根をかたちづくるのは、それぞれの商店の建物そのものから下屋として張り出した「庇(ひさし)」である。雪の時に傘無しで往来できるだけでなく、農家のおばちゃんが筵を広げて作物を売ったり、子供たちの遊び場になったりと、町の賑わいに貢献していた。昭和58年以降の県道の拡幅工事にともない、こもせはひとつ、またひとつと消えていった。

建物を持ち上げたまま一旦固定し、新たに基礎と土台をつくる。柱の下端、土台との接合部が痛んでいる箇所は補修した。
さて、関家もこの拡幅工事にあたり、移転か取り壊しの決断を迫られる。造り酒屋であった当時は奉公人を含め大勢が起居していたが、当主の関 善一さん夫婦と、老齢になった両親と住むために関東から戻ってきた娘のより子さんの、たった3人でこれだけの建物を維持管理するのは容易なことではない。「残してもうちではどうにもできない。解体すればどんなに楽だろう、と日々心が揺れた」とより子さんは語る。

6月末頃、据え付け作業。ゆっくりと降ろすと、古い建物が新しい土台の上にぴったりとはまった。今後の利活用のために、引き続き改修工事に行った。

全ての工事が終わり、すっかりきれいになった関善酒店。整えられたコミセの前方、セットバックした部分に砂利が敷かれている。やがては、ここは県道に変わる。
関家の心が解体に傾きかけていた頃、町のひとびとによる「関家建物の保全活用を望む市民有志の会」が結成された。2003年3月4日、同会は四千人以上ものの署名簿を携え、市に関善の主屋とこもせを無償で譲り渡し、後世のために使ってもらおう、と申し入れたが、市の回答は行政での保存は受け入れられないというものであった。同月の26日、七千人にまで膨れあがった署名簿をもって再度申し入れを行ったが、あくまでも「民間民営方式で」という市の基本姿勢が変わることはなかった。