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新しい道理と古い道理? 新潟地震調査報告


■地滑りと豪雪の半蔵金

半蔵金は山奥の集落です。田んぼは一枚一枚が小さな棚田になっています。家の背後はすぐ熊の出るような山で、下はもう谷、というごくわずかな平坦地に、家が建っています。冬の積雪が3Mを越える豪雪地帯で、家の山側には必ず、といっていいほど、融雪池が掘られており、水をたたえています。また、家の谷側には通路がとられるという、自然とその地形を受け入れる形で集落がつくられています。ここは、国内でも有数の地滑り地帯でもあり、ところどころに地層から水を抜くための装置がみられます。

雪国特有の昔ながらの知恵が生きた伝統的な木組みで、つまり「古い道理」でていねいに作られた家が多いようです。柱も梁も断面が大きく、雪の荷重を受けるためにがっちりしたつくりです。昔ながらの木組みの技術の基本にのっとって、接合部を丁寧に組んである家が多かったです。総二階の二階部分にはバルコニーのない掃き出しのガラス戸があり、冬の積雪時にはここから出入りすることがうかがい知れます。今では屋根の多くが鉄板製で、雪を落としやすい、あるいは雪下ろしがしやすいように工夫されたさまざまなバリエーションがあります。外壁は葦で編んだ小舞に土を塗った壁の上に、積雪時の湿気に備え、比較的高いところにまで板を張ってある家が多いようです。

地滑りがあり、豪雪のきびしいこの地に人が入ったのは戦国時代でした。斜面のわずかな平坦な土地に家を構え、棚田をひらきました。その様子が雛壇に石仏が並んだように見えたことから「十三仏村」と呼ばれていたそうです。人口が増えるにつれ、棚田で穫れる米だけでは成り立たず、男は炭焼き、女は養蚕をしながら生計を建てていました。しかし、この二つの現金収入源がすたれるとともに人口は減っていく一方で、今に至っています。昭和31年までは半蔵金村でしたが、その後、栃尾市に編入されました。

■半蔵金の被害概況

居住者の聞き取りや室内の物の転倒や散乱の状況、重いピアノが数十センチも飛んで移動していた跡などを見て、地震の揺れは激烈だったことがうかがわれました。11月9日にかなり大きな余震があり、この辺りでは本震よりも大きかったのではと言われています。私たちと一緒に廻った大工の内山さんは9日にもその前日と同じように、復旧の現場で忙しく立ち働いていました。「余震には慣れていたので多少のことでは動じなかったが、この時ばかりは道具を放り投げて外に飛び出した」とのことでした。

しかし、建物への被害はその揺れによるものよりも、地滑りや斜面崩壊など地盤災害が引き金になって引き起こされているものが多く見受けられました。地震の前の7月に起きた集中豪雨で地盤がゆるんでいたところに起きた大きな地震ということで、地盤被害が多かったといわれています。敷地より谷側の斜面が崩れ落ちる、敷地より山側の斜面が滑り落ちてくる、敷地地盤が沈むなど、地震の揺れそのものによってでなく地盤が崩落したために、基礎と柱の不同沈下、基礎のコンクリートが割れ、床組が損壊や落下などが引き起こされたのです。

このように被害はかなり大きかったのですが、半蔵金の方々が行政などの支援が入る前から、地割れをしたところにブルーシートをかけたり、できる応急処置をしたりと、自力で動かれているたくましさに感心しました。半蔵金に入る前に、同じく被災した長岡の友人のところにも寄ったのですが、被害は半蔵金ほどではない割に、都市生活者の方が、地震で受けた精神的な動揺から回復するのにより時間がかかるのかな、という印象を受けました。半蔵金の方たちは「大変だったよ」「こわかったよ」とおっしゃるのですが、「こんなこともある」と、起きた天災をあっけらかんと受け入れ「まずはできることからやる」という、逆境の中を生き抜く力強さをもっておられるように見えました。

■揺れて、戻る

地盤に被害を受けているところでも、崩落まで起きていない敷地に建つ家では上部木組み架構に殆ど損壊の痕は見付けられず、振動でずれた形跡が残っているものすら少なく、架構全体で元に戻っていると見なし得る家もありました。あるおばあさんが目撃した「古い道理」の家のふるまいについての話です。「最初の地震で大きく傾いたのに、次の余震でまたもどっちゃった」と言うのです。木組みのしなやかな動きを特徴的に物語っています。「おっかなかった。でもこの家が好きだから、毎日昼間はここに来るよ。息子の嫁さんなんかはこわがってるけどね」。おばあさんは、夜だけ避難所に帰るのだそうです。私たちは地震で揺れているその場にいたわけではありませんが、「大きく傾いた後、もとに戻った」という実例をいくつか見ましたのでご紹介します 。

【写真1】 外壁の軒下を見てください。雪が多いので、高い位置まで板張りになっていますが、軒下のわずかな部分が漆喰塗りになっています。柱と桁が直交してる角の四隅が剥がれているのが見えますか? つまり、揺れる時にはこの角がぼろぼろと落ちるほど軸組は傾いたが、今は写真のようにもとに戻っていることが分かります。

【写真2】別の家の内部です。母屋の外に庇が出ていて、座敷の押し入れと床の間が母屋から突き出す下屋となっていたのですが、母屋とちがう揺れ方をした下屋部分の基礎下の地盤が崩れ、土壁がごぞっと取れて、外が見えています。柱に浅く差してあるだけの押し入れ上の長押も、揺れではずれて落ちてしまいました。これだけ揺れたのに、柱は垂直を梁は水平を保っています。揺れて、垂直水平に戻ったのです。

【写真3】これは、揺れで鴨居と敷居が平行四辺形状となり、源氏ふすまの障子がはずれ、縦桟が折れてしまった様子です。吊り壁に貼ってあった紙もはがれました。ここでも柱は垂直に梁や鴨居は水平に戻っています。

いずれの写真からも、地震の揺れで家が激しく「傾いた」ことが分かります。ところが、それが傾きっぱなしではなく戻っています。「新しい道理」の建物であれば、より固いつくりなので、傾いてもそのままになることが多いと思われます。

■壊れる部分をつくって復元するのが「古い道理」

漆喰がはがれる、土壁がぼろぼろと崩れる。建具がはずれる。そのぐらい揺れても傾いても、架構の骨組みは折れたり損傷したりすることなく、元に戻るのです。厳密にいえば、柱に穿ったホゾ穴に梁の長ホゾや竿が通し抜いて栓や楔で止めることで、その接合部の部材同士のめりこみと復元力、柱や梁のしなやかさが共に力となってもとに戻るのです。土壁も地震の力を受け持ちます。大きな力がかかった時、軸組とくらべると比較的固い土壁が一番最初に崩れます。段階的に壊れる部分をつくって地震をしのいできた、というのが日本の家の「古い道理」なのです。今だったら「こんなんじゃ住めない!」と思い込んでしまうところを、昔の人だったら「直せばいい」といって、またそこにある土を練って壁を塗って直してしまうのでしょう。そこにある資源で、時間をかけて。

30年ほど前、半蔵金で幼少時代を過ごされたという石丸さん兄弟のサイトより転載させていただきました。

斜面に立つ家々は雪国特有の総二階。屋根は雪を融かしたり落としたりしやすいように、ざまざまな形に工夫されている。

左/30年ほど前の雪下ろしの様子(石丸さん兄弟が運営する「半蔵金を応援するページ」より)積もった雪と屋根からおろした雪とで、軒の高さ近くにまでなっていた。 右/山側の斜面には、屋根から落ちた雪を融かす池がある。小屋組はがっちりとした木組み。二階には、積雪時に出入りできる引違いの戸がある。はしごも積雪時に屋根や二階の出入口に上がるためのもの。雪の季節を目前に、一階部分の周囲は雪囲いがされている。


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