村民の帰村のために尽力された山古志支所の斉藤隆さん。
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新潟県中越地震被災地訪問レポート


山間いに錦鯉の池と棚田
潤い豊かな山古志へ

山古志に向う坂道を登るごとに、空気が潤ってくるのを実感します。四方を山に囲まれているからだけではなく、自然の山の地形に沿うように点在する棚田や野池にいつも雪解け水が蓄えられているからでしょうか。瞼を通して、しっとりと潤いが伝わってきます。稲作や、この地域特産の錦鯉の養殖に必要な水環境を支えているのが山々の杉やブナ林です。それらすべてがあいまって、美しい里山風景をつくりだしています。

この旧山古志村全域で、690戸・2167人が被災、全員が避難生活を強いられたわけですが、震災2年後には35.5%が、そして3年後には72%にあたる500戸・1500人が村に戻っています。「全村崩壊で、廃村か?」とまで報道されていた山古志への高い帰村率に、驚かれる方も多いでしょう。

集落再生のカギとなったのは
村落共同体の心の再建

8月中旬の棚田。満々と水がたたえられた野池には錦鯉が泳ぐ。

長岡市山古志支所の斉藤隆さんに、この高い帰村率が実現したわけについて、お話をうかがいました。親戚のもとで、あるいは仮設住宅での暮らしを余儀なくされていた山古志の人たちは、村に帰れるメドが立つ前から、いや、帰れない時期であったからこそ、「山古志に帰ろう」の言葉を支えに、精神面での共同体再生に力を注いできたそうです。

山古志には「牛の角突き」と呼ばれる伝統的な闘牛行事があり、雪から解放される5月から11月にかけて毎月大会が開催されていました。

震災の翌年の2005年5月には、長岡に仮設会場をもうけてさっそく再開、翌年には沖縄や九州勢を招いての全国大会を一部帰村が実現した山古志で敢行。2009年10月には、観覧席を増やしてのリニューアルオープン。震災前より県内外のファンも増え、にぎわっているそうです。

闘牛の映像

ほかにも、倒壊した地蔵堂や神社など、地域共同体の心のつながりの象徴といえる建物を再建などが相次ぎました。震災翌年、長谷川さんたちの呼びかけで被災した住宅の修復や、神社再建の動きを知り、木の家ネットでは2005年の総会(第5期総会・東京大会)で寄付を集めましたが、その神社も2005年11月に、無事再建されています。

行政側でも、道路など生活インフラのハード面の復興に並行して、こうした村内での心のケアを通じての集落再生を応援してきたそうです。平成16年12月27日に新潟県庁でおこなわれた「第一回震災復興ビジョン策定懇話会」の報告書には「村民の思いは『帰ろう、山古志へ!』山古志で暮らしたい。山古志でなら暮らせる。山古志でなければ暮らせない。である」と、記されています。都市部の震災とはちがった、土地と人との結びつきの強さを感じさせられます。

山村コミュニティーのできていた山古志であったからこそ、地域の行事や大切な場所の復興が、山に戻るきっかけをつくり、高い帰村率に結びついたのでしょう。「帰りたい」というモチベーションがまずあり、行政がそれをサポートする役を果たしながら、第一に社会的なインフラが、そして家の修復がゆっくりと進んでいくという順序で、帰村が実現していったのです。

村に帰って来られなかった人でも、住居は街に置きながら毎日軽トラやカブで山に通い、農作業や山菜取りをし、顔見知りの人たちと談笑することを生き甲斐としている人も多いそうです。震災という非常時において、人々の気持ちをどのようにケアしていけるかが大切だということを、斉藤さんのお話から強く感じさせられました。

インフラの復旧は進む一方で、
被災住宅は?

精神面での立て直しと並行して、一日でも早く帰ってこられるように、道路や水道、電気、通信などのライフラインの復旧もいちはやく進められました。ところが、次にでてくるのが「肝心の帰る先となる家に住み続けられるのか?」という問題でした。

地震災害が発生すると、被害の大きな地域には被災直後から応急危険度判定士が現地入りし、多くの建物に「赤紙(危険)」「黄紙(要注意)」の紙が貼られていきます。また、生活再建支援の制度上の取り扱いや義援金、税制上の減免、保険への申告基準にかかわる罹災認定のために、建物の残存価値を「全壊」「大規模半壊」「半壊」「一部損傷」に区分する査定も行われます。

担当者により、応急危険度判定に差が出たり、判定自体が混乱を来していることもあった。判定の種別の詳細は上の写真をクリック(いずれも「地震被災建物 修復の道しるべ」より) 「実際には『危険』『全壊』は、『直せない』という意味ではありません。まずは余震にも倒壊せず、雨風をしのげるだけの応急処置をしておき、長期的には耐震性・安全性を確保して、修復の道を探ればいいのです」と長谷川さんは言いますが、「赤紙を貼られたから解体しなければならない」「全壊だから修復は無理」という諦めが生まれやすいのは当然のことです。判定や査定をする行政側からの十分な説明がないまま、そしてマスコミの報道で「危険」「全壊」という言葉がセンセーショナルに報じられる中、人々はさらに不安を募らせていきました。

震災が発生したのはちょうど積雪期に入ろうとする時期であり、積雪で家が倒壊するおそれも高く、山古志村の住民は全村避難で町におりていました。この冬のことを長谷川さんは「山に入れず、雪で潰れていく家が一軒、また一軒・・・監視カメラでその様子を見守るしかないのは辛かった。しかしその一方で、多くの木造建物が19年ぶりというこの大雪にも耐えてもいたんです」と振り返ります。雪下ろしボランティアの人たちと協力しながら、なんとか被災した家をもちこたえさせたものの、「雪解けとともに解体ラッシュがはじまるのでは…」とのおそれが長谷川さんの頭をよぎったそうです。

震災後すっぽりと大雪に埋もれ、押されても、圧倒的に多くの民家が潰れずに耐え抜いた。(写真提供:長谷川順一)

「被災した家の住まい手の不安に応えるために、より積極的なコミュニケーションの場を持たなくては」長谷川さんは駆り立てられるようにして、各地で現地ボランティアと協働で修復相談会を開き、住まい手の相談にのりました。「兵庫の地震のときのように慌てて家をつぶすことはないんですよ」「昔からの家や集落は、みんなの大切な生活文化の器です。直して維持することも考えていきましょうよ」伝統的な家の地震への構えの特徴をひもときながら、「全壊」と判断されたり「危険」と赤紙を貼られた家であっても、直せば安全に住めることを、長谷川さんは説明し続けました。途方にくれていた村の人々は丁寧な説明に安堵し、被災者に寄り添った個別相談に「時間をかけてでも、壊さず直していこう」と思うようになっていきました。


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充分に直せるが、大きさゆえに資金計画が頓挫し、手付かずのまま5年が経過した家もあった。
柱や梁・差鴨居に立派なケヤキや松が使われており、集落でも1・2番の立派なお宅だったはず。
修復の手立てのないまま、風雪にさらされて朽ちてゆくのを待つ状態なのが、辛い。