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山里の暮らしがなくなる?


全国初の限界集落対策条例

現在、山間の過疎地域を抱える多くの自治体では、人口が減少する一方の現状を何とか打開しようと、さまざまな対策を講じています。その中のひとつに京都府の綾部市があります。ここでは限界集落対策に的を絞った全国初の条例である「水源の里条例」が2007年4月に施行され、新たな住民の受け入れ促進を柱とした振興策がスタートしています。過疎問題を「村」や「町」の問題だと思っている人には、綾部市のような「市」が問題解決に取り組むというのが意外に感じられるかもしれません。しかし、地方都市の場合は、市といっても人がたくさん暮らしているのは中心部だけで、外縁部は山深い過疎地だというところがめずらしくなく、綾部市もその例に当たります。さらに最近のいわゆる「平成の大合併」では、元からある市に周辺の町村が半ば吸収されるような形で合併が行われるケースも多く、旧町村の過疎問題をそのまま抱えている市も増えています。

綾部市上林地区のフキ畑

綾部市は周辺の1町12村が1950年、55年、56年と3度の合併を経て現在の市域となりました。位置は京都府丹後地域の最北部で、西は福知山市、北は舞鶴市と接し、東は福井県との府県境になります。人口は約37,000人で全体的には微減程度で推移していますが、山間部は人口減少が著しく、独り暮らしを含む高齢者だけの世帯が多くなっています。2005年の暮れから2006年初めには20年ぶりという大雪になり、そのような世帯では道路から玄関まで除雪することさえままならないというケースが続出し、そのことが限界集落対策のための条例制定につながりました。条例では、市役所から25㎞以上離れていて、高齢者比率が60%以上、世帯数は20戸未満、水源地域に位置している――という条件に該当する集落が「水源の里」と位置づけられ、新規移住者を対象に住宅建設を補助したり、一定期間、支援金を支給したりという定住促進策が講じられることになっています。

現在、綾部市では5つの集落が「水源の里」として条例による対策の対象となっていて、そのいずれもが市内最東部の上林(かんばやし)地区にあります。昨年5月、私は同地区を取材で訪れたのですが、地元のお年寄りに話を聞くと、条例が制定されたことによって、自分たちの存在が忘れ去られたわけではないことがわかり、地域の共同行事を企画するなど、現状を打開しようという自発的な動きも出てきているということでした。また、大阪府内からこの地区に移住することを決めた若い夫婦もいるそうで、少しずつではあっても条例の効果が上がり始めていることも感じられました。ただ、その一方で、息子世代の多くはすでに地区を出てしまっていて、地区外で生まれた孫にとっては、ここは親たちの出身地ではあっても自分たちの「故郷」ではなく、たまに訪れても「携帯が圏外だから」とすぐに帰ってしまったといった話も聞かれ、この地域が抱える問題が簡単には解決できない現実に触れた思いもしました。4代前のおじいちゃんが明治11年に建てたという家について「明治9年に山で木を伐り、10年に板に挽いたり、はつったりして、11年に運び出して建てたんですよ」と、まるで昨日のことのように話す人がいるこの地域で、これまで受け継がれてきたそのような記憶や暮らしの知恵を将来にも紡いでいくことができるのか。上林地区はまさにその瀬戸際にあるのだということを強く感じた取材行でした。

※森の聞き書き甲子園

樵やマタギ、木工職人といった森に関わる仕事に関して、優れた知恵や技術を持つ「森の名手・名人」を高校生が訪ね、その話を記録する取り組み。名手・名人は国土緑化推進機構が毎年100人を認定。共存の森ネットワークが高校生100人を募集し、林野庁、文部科学省、国土緑化推進機構とともに高校生の聞き書きを実施している。2002年にスタートし、2008年までに名手・名人、高校生とも700名ずつが選ばれている。【その映像をご覧ください】
・森の名人から聞き書きをした高校生の声

ほかにも、
アツシ織りの名人を訪ねる。
竹籠づくりの名人を訪ねる。
「森の甲子園」を経験した高校生とOBが森づくりに乗り出す。

森の生業を伝え聞くことで見えるもの

山間地域には木材の生産や炭焼き、木地物づくり、狩猟、川漁等々、森の恵みを生かした生業に従事してきた人たちがたくさんいます。そのような人たちの中から毎年100人の名手・名人が選ばれ、彼らの技や暮らしの知恵をやはり100人の高校生が取材してレポートにまとめる「森の聞き書き甲子園」※という活動がNPO法人の「共存の森ネットワーク」によって展開されています。名手・名人たちの技というのは、何世代にもわたる森での営みを通じて培われてきた知恵や洞察力、そして技術とを総合したものであり、人という生き物が自然の中で生き抜くための「術」(すべ)そのものだと言えます。それらは何でも簡単に入手できるようになった現代社会においては、卓越した技術や手技の冴えが驚きをもって迎えられはしても、ややもすると骨董的な価値以上の評価を得られないかもしれません。しかし、自然の恵みを生かすことに人の暮らしの根源があるとするなら、山間地域で営まれてきたこれら生業の技にこそ、普遍的な価値が秘められていると私は思います。

そのような技に10代後半という多感な時期に触れて、高校生たちはどんなことを感じるのでしょうか。作成されたレポートは名手・名人の語りをそのまま綴ったものですが、名手・名人の話を聞き、それをまとめる作業を通して、森という存在の重さと、それに向き合うことで育まれた技の価値とに対する畏敬の念とでもいうべきものも彼ら、彼女たちの中に育まれることになったのではないかと私は思います。それがいかに強いインパクトであったかは、聞き書きに参加した高校生がその後、森に関わる仕事に就いたケースがあるということからもうかがえます。

名人によるネズコのへぎ板づくり

昨年10月、共存の森ネットワークが長野県の木曽・上松で開催した「森の名手・名人フォーラム」というイベントでは、宿泊先の民宿の囲炉裏端で、この地で長く林業や農業に従事してきた人の話を聞く集まりが夕食後にもたれました。そこで語られた話は、機械化がまだ進んでいなかった時代に身体を使った作業がいかに大変で辛いものであったかといったものだったのですが、「あのころの楽しみといえば上松の町に飲みに行くことだった。坂を上って家に帰ることができるくらいに酒の量を調節するのが大変だったが、朝気がつくと坂道の途中に転がっていたなんてこともあった」といったエピソードも交えた語り口にユーモラスな響きもあったためか、内容とは裏腹に暗さは感じられず、むしろ山里の暮らしの確かさのようなものがよく伝わってきて、囲炉裏を囲んだ参加者は身じろぎもせずに聞き入るばかりでした。その中には聞き書きに参加した高校生のOBが多く含まれていたのですが、ふと気付くと彼らの何人もが目を真っ赤にして語り手を見つめ、中にはあふれる涙を手で拭いながら一言でも聞き漏らすまいと一心に聞き入るOBもいて、私自身も何か胸を衝かれたような思いがしました。自然と向き合う暮らしには、やはり人が生きる上での本質があると私は思います。その意味で山間地域から人が減り続ける現状には強い危機感を覚えるのです。その流れを断ち切る決め手が残念ながら今の私には思い浮かびませんが、自分自身が山里での暮らしを実践することも通じて、森と人との関係を未来に向けてどう紡いでいけばいいのかをこれからも考え続けたいと思います。


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使い込まれた山仕事の道具