
大江 忍
伝統構法の文化財や民家の被災状況

今回、2016/5/3 〜 5/5の調査に入った場所は、ほぼ一直線で断層に沿って被害が大きいのがわかった。グーグルアースで見ると山が連なり、川が流れ、緑がまっすぐに山を形成していて、断層だとわかりやすい地形である。このページでは、文化財級の建築物の被災状況をレポートする。
阿蘇神社の被災状況について
すでにニュースで多く報道されているが、楼門と拝殿以外は倒壊していない。楼門と拝殿のあたりだけ特に揺れが激しかったということもないのだろうか、そのように錯覚してしまいそうな、不思議な感じがした。
倒壊した楼門、すっくと立つ還御門・御幸門
倒壊する前の阿蘇神社の楼門は、二階建てで高さ18m、「日本三大楼門」のひとつであった。倒壊した楼門の前にはバリケードされており、参拝できるよう、仮の拝殿が建てられていた。

参道に出て、駐車場を通り、東側に回り込むと、楼門の銅板葺き屋根が倒れているのが目の前に見える。

壁がなく、頭の重い感じのする威容のある建築物であったので、ころんでしまった。耐震補強がされていたということであるが、どのような補強がなされていたのかは、つぶれていて、確認できなかった。
文化庁では、4/23の現地調査により、部材を再利用しての楼門の復旧は可能だと判断したそうだ。毎日新聞の記事「重文・楼門倒壊の阿蘇神社 完全復旧に10年」 はこちら
部材の痛んだところだけを修復して、元に戻すことはできる。これが伝統構法のよいところでもある。木組みだけの建築物であることから、復元時には、限界耐力計算などの構造計算をして、耐震補強をされるだろうが、景観をそこなわないようにしてほしいものである。
倒壊した楼門の両隣にある、還御門、御幸門にはRCの添え柱で耐震補強がしてあり、倒壊していなかった。


還御門の足元を見てみると、石の上でわずかに移動しているのがわかる。

境内:壁のない拝殿は全壊、板壁の建物は粘った
還御門西側から回り込み境内へ入ると、拝殿が倒れていた。バリケードがあるために近くにいくことができない

倒れた拝殿に引きずられるようにして、神饌所も傾きかけている。

拝殿東側の神輿庫は、神饌所と同じく落とし込み板壁の建物で、変形はしているが、倒れていなかった。板壁がめり込み、粘った跡がみえた。

同じ敷地内にある社務所は、目立った被害もなく、瓦も落ちていない。

参道ほか
参道の石灯篭、石柵は倒れているが、鳥居は、補強してあるのか、倒れていない。

参道前の二階建ての店舗は、一階部分に損傷が見られたが、倒れていなかった。

御幸門の横の駐車場内にあった鉄骨の建物は、壁のサイディングにひび割れを起こしていた。

益城町小谷の築120年、200年の民家

益城町小谷にある、伝統構法の建物を見せていただいた。屋根瓦の一部や土壁が落ちている箇所はあるものの、どちらも構造的な損傷は見られなかった。
築120年の元・養蚕農家
小谷の集落の一番南にあり、目の前に木山川が流れる敷地で、お茶の製造工場を営まれるT邸は、築約120年の平屋(写真13)で、過去に屋根裏で蚕を飼った民家であった。古くからこの地に建っており、地盤がよかったのか、傾きも見られない程度で済んでいた。外観的には、漆喰も割れておらず、屋根瓦が一部落ちただけである。

家人に許可を得て、内部に入ることができた。奥様のご説明によると、大変な地震の揺れであって、「震度7どころか、まるで震度8か10のようだった」と表現されるほど大変な揺れで恐怖を感じたようだが、家族全員室内のリビングで、その揺れをしのいでいたとのこと。骨太の木材で組まれた平屋の架構で、小屋裏の木組みも特に損傷は見られなかった。

築200年の元・武家屋敷
T邸と川を挟んで南東に築約200年の民家があった。武家屋敷として、この地に建てられ、道路の拡幅で、北へ曳家されていた。屋根は、瓦葺きであるが、野地板から葺き替えられており、急勾配の寄棟である。被災状況としては、隅棟が落ちていたが、平瓦部分での被災はなかった。

足元は、根継ぎがされていたが、その部分をモルタルで囲われていたために、腐りがあり、石の束の上で30mmほど移動していた。

奥様のご案内で室内も見ることができた。床の間の後ろの壁は、大きく崩落しているが、内部の架構には、損傷はみられない。

玄関脇の土壁が落ち、中の竹小舞が露出していた。写真は、玄関ホール上部の壁の損傷。修理可能な範囲である。

県や町の指定を受けていないが、町の文化財指定を受ける寸前だったとのこと。是非とも個人ではなく、行政として補助金を出して残していただきたい歴史的な武家屋敷である。
阿蘇郡西原村宮山の八王社の被災状況について

西原村の宮山という地域の氏神様である八王社は、参道にイチイガシの大木が両側に並ぶ地元で大切に引き継がれてきたと一目でわかる氏神様である。享保20年(1735年)再建とあるので約280年の建築である。境内には、本殿と脇社、拝殿、手水舎がある。
参道
参道の石段や灯篭は残念ながら崩れたり、倒れたりしており、その中を通り境内地へ入った。

移動した手水舎
手水舎は、倒壊を免れ、そのまま束石から20cmほど移動しており、瓦も一枚も落ちることなく四方転びの柱が踏ん張ったようで、この場合は、簡単に元の場所へ戻せる。

倒壊した拝殿
残念ながら、阿蘇神社と同じく拝殿は壁がないので、倒壊していた。屋根瓦に損傷がないことからガイドライン工法で屋根は葺かれていたと推察される。

軒桁がはずれた本殿
拝殿の後ろにある本殿は、なんとか倒壊を免れたが、北西方向に約20cmほど移動している。


北側の正面向かって左側の柱と屋根を支える枡の組み物の部分で損傷しているが落とし込み板壁が変形しても効いている。

正面の軒桁が外れてしまって積み木が崩れたようである。
屋根は銅板葺であることとハネギが内部で効いているのか屋根全体の大きな変形は免れている。

移動した脇社
脇社は、土台作りだったこともあり40cmほど滑るように移動しており、本殿と同様に軒桁が外れているが、比較的容易に元の位置に戻せると判断できる。


復旧にむけて
本殿に関しては、早急に足場を組み、軒桁を仮に支えて、小屋組みから上の屋根が余震で落ちないように支えることが急務である。元の部材を再度利用することができるが、地元の氏子さんの話では、予算がすぐには無いとのことで、特に文化財の指定を受けていなことから、補助金も現在のままでは期待できないとのこと。是非とも募金を募り、再建してほしいものである。また、行政は、このような歴史的建造物に関しては、特に指定がなくても補助金をつけるべきと主張したい。
まとめ
このように、伝統構法によって造られた建築物は、変形性能を有し、ある一定以上の地震力が入力されると移動することによって力を逃がすことから倒壊を免れるケースが多い。元の木材や土などの自然素材の材料をリサイクル、リユースする意味でも廃棄物にしないことでゼロエミッションを達成することができる。
今回の調査では、建築的な大きな発見や再検討しなくてはならないこともいくつかあり、その裏には、大きな生命の犠牲や経済損失があることを肝に銘じて、これからの熊本の復興に少しでもお手伝いできるようにしたい。